陶芸に関する悪戦苦陶の話
自費出版「1」(第六十八話)


宮崎で単身赴任していた時に書き溜めたエッセイ「窓際のロクロ挽き」を本にしたいと思った。
25社の出版会社に原稿を送ったがどこも取り上げる会社がなかった。自費出版しか本にする道がなくなった。自費出版にするには相当な予算が必要になる。とてもボクのような安サラリーマンに自費出版は無理だ。

家具インテリア関連の雑誌「室内」の編集をしていた塩野氏とMAio108の陶芸教室で出会った。
何か良い方法がないか相談した。塩野氏から簡単な本なら安く製作できると教えて頂いた。

昨年の夏 塩野氏がインテリア関連雑誌「室内」から独立したのを機会に本の制作を依頼した。

打ち合わせの時、「自費出版は、何か かっこ悪いですね」とボクが言うと塩野氏は「書き物を商売にするようになったのは江戸時代からで本格的に仕事として書き始めたのは明治になってからですよ。吉田兼好の徒然草、清少納言の枕草子、鴨長明の方丈記などの随筆は全て自費出版みたいなものですよ」と励ましてくれた。

値段をつけても買取りをすれば大丈夫と言われたが徒然草も自費出版ならボクの本も自費出版で良いかと表紙に「私家版」と記す事にした。

桜が開花したニュースとともに製本された「窓際のロクロ挽き」100冊が印刷会社から送られて来た。

梱包を解くとイメージ以上に良く出来上がったボクの本が出て来た。

わくわくしながらページを開いた。ドラフトで読んだ時より文章の未熟さだけが目に付く。立派な表紙に比べ文章の下手さ加減が浮き上がってきた。読んでいる内に段々不安な気持が広がり全て焼いてしまおうかと思った。

仕事でお世話になり、個人としても親しくしている脳外科の先生がいる。これまで専門領域の本を数刷出版している。
本が送られて来た翌日 仕事でお会いした。本が出来上がった事を報告した。本を読み直して恥ずかしくなった事を話す。先生から「自分も本を出版した時 刷り上って直ぐは一度も満足したことがない。一年くらいして読み直すとまあまあだなーと考えられるようになる」と励ましてくれた。

帰宅して改めて「窓際のロクロ挽き」を手に取り、吉田兼好も自費出版だし700年くらい経つと面白いと思ってくれる人がいるかもしれないと自分自身を慰めた。

え 吉田兼好って窓際族でなく貴族だって・・・いや貴族でないが宮中のお抱え歌人。

抱えてくれなくていいけど どこかボクのエッセイを取り上げてくれる出版社 ないかなー


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いつも読んで頂き、大変ありがとうございます。
ブログに掲載しています以前に書き留めたエッセイ「窓際のロクロ挽き」が本になりました。
未熟な文章の本ですがもし良かったら下記メールにご住所とお名前を書いてご連絡下さい。贈らさせて頂きます。

数に限りがございますので無くなった時点で〆切らさせて
頂きます。大変勝手ですが宜しくお願い申し上げます。

メールアドレス:michimasaando11@yahoo.co.jp

                            安東道正






2007⁄03⁄28(Wed) 20:42   未分類 | Comment(4) | Trackback(0) | ↑Top
出版記念パーティー(第六十七話)


梅の花が咲き始めた頃 出版記念パーティーの案内状が届いた。

外資系製薬会社で宣伝部長をされていた西寺桂子氏の二冊目の単行本「医師の死角、患者の死角」の出版記念パーティーだ。

今までいろんなパーティーに出席してきたが出版記念パーティーのお誘いは初めて。案内を頂いた時、何か文化度の高い次元からお誘いのようで自分の知的度がグーンと上がった感じがした。

京王線の電車の窓から辛夷(こぶし)の花を見ながら銀座に向かった。

何名ぐらい集まるのだろうか?出版会社の編集者・芸術家・作家 その他どんな職業の人がいるのだろうか?社会的地位の高い人が多いのだろう。ボクのような会社の窓際族はいないだろう。段々不安な気持が高まったが銀座に着く頃には、まあ何とかなるだろう気合だ、気合と自分に言い聞かせて会場のTHE WINE BARのドアを開けた。

中に入ると20畳くらいのフロアでボクがイメージした出版記念パーティーにしては天井が低く少し狭いと感じた。
テーブルが片隅に寄せられ椅子が壁に並べられていた。立食のパーティーのようだ。
お洒落なステンドグラスのライトで照明がとられている。照明を少し落とし落ち着いた雰囲気で会場が設営されていた。

受付の手伝いをと言われていたので1時間ほど前に会場に着くと西寺さんが待っていてくれた。

出席予定者は25名とボクが予想していたより少ない。出版会社の編集長・読売新聞の編集長・大学病院の教授・看護学校の学長・調剤薬局の社長・熊本の医薬品薬卸問屋の社長と西寺さんの交友関係の広さを改めて実感した。

一番遠くから出席した熊本の医薬品卸問屋社長の乾杯でパーティーが始まった。
司会は医療ジャーナリスト高田昌彦氏(外資系製薬会社の宣伝紙SCOPEの二代目編集長・西寺さんの後任)。

出席者から西寺さんへ祝辞が述べられた。

西寺さんは大学を卒業して外資系製薬会社の宣伝部長(医師向け情報誌SCOPE編集長)で34年間勤務。その後 フリーの医療コラムニストとして13年間、医療に関わってきた。医療の側面から現場を見続け患者の為になる医療、それを提供する医療関係者へ提言・助言を続けた。医療界に果たした功績の大きさが祝辞の中から伝わってきた。

聖マリアンナの教授が話された西寺さんのSCOPE編集長時代のエピソードが面白かった。西寺さんから原稿を頼まれ必死で書いて送ると添削された原稿が返って来た。先生の子供さんがビッシリ修正された原稿を見て「お父さんこれどうしたの」と驚いたそうだ。多分 子供さんは自分の父親は人から先生と呼ばれる人なのに父親が書いた文章が学校の先生から修正されたようにビッシリ書き込みがされていて驚いたのだろう。

実は西寺さんはボクのエッセイの師匠でもある。西寺さんがSCOPE編集長時代、西寺さんの書いた文章を見てボクは勉強した。二年ほど前に書き溜めたエッセイの添削をお願いした事がある。送った三篇が真っ赤になって返ってきた。文章を書く時の心構えから「てにをは」・句読点の打ち方までビッシリ添削されていた。
今でも執筆が行き詰るとこの添削された原稿を取り出し読み直す。ボクの聖書になっている。

西寺さんに「教授にも赤字で添削したのですか?」と聴いた。「いや教授には青字で添削した」と涼しい顔で返事が返って来た。


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2007⁄03⁄21(Wed) 20:15   未分類 | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top
壷屋焼(4)「シーサー」(第六十六話)


沖縄に着くとシーサーが出迎えてくれる。
民家の屋根や塀、門にシーサーが愛嬌のある顔で並んでいる。

やちむん通りにシーサー専門のお店があった。中に入ると上焼・荒焼・漆喰・布・木製などいろんな素材で出来たシーサーがある。

シーサーは、沖縄が琉球王国だった14〜15世紀頃に、エジプトからシルクロード・中国を経由し、琉球に伝えられたと考えられている。 当時 琉球は、琉球独立国として海外貿易が盛んだった為、海外の様々な文化が入ってきた。日本本土への橋渡しとしても、位置付けられていた。海外の生活文化、食文化などと共にシーサーも伝えられたと考えられている。 

シーサーのルーツは、エジプトのスフィンクス説が有力である。姿を変えながら琉球に伝えられた。台風や火災などの自然災害が多い琉球では、家の守り神・守護神・魔除け・悪霊返し・火伏せとして、屋根瓦の上、門、玄関、床の間などにシーサーを据え付けるようになったと伝えられている。

荒焼のシーサーと上焼のシーサーを手にとって観ていると店員のお姉さんが愛嬌のある顔で「全部手捻りですよ」と上焼のシーサーを勧めてくれた。

値段も1000円を消して800円となっていた。大きさ・値段・愛嬌のある顔の表情でこれに決めた。

キャリーバッグを引っ張って、ゆっくりした雰囲気のやちむん通りから市場などで賑わう平和通りを抜けてさらに大都会の国際通りにでる。徒歩30分の間に色んな空気が流れている。行き交う人々も外国人が多く沖縄の不思議な魅力になっている。

国際通りを右に曲がり信号が二つ目にモノレールの牧志駅がある。

駅のホームから隣にある壷屋小学校の校庭で四・五人の子供達が野球をしているのが見えた。三階建ての校舎の屋上に等間隔でシーサーが飾られていた。多分 卒業記念に生徒が製作したものだろう。怪獣のような形のものが多かった。

家に帰りシーサーの包みを開けた。
中からシーサー専門店でボクに勧めてくれた店員のお姉さんに似た愛嬌のあるシーサーが出て来た。

おや このシーサーのモデルは、あのお姉さんだったか。


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2007⁄03⁄14(Wed) 22:26   未分類 | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top
壷屋焼(3)「沖縄の焼物」(第六十五話)


新垣製陶所を出てキャリーバッグを引き那覇市立壷屋焼博物館に向かった。やちむん通りは石畳で出来ている為、安物のキャリーバックがガタゴトと壊れそうな音を出している。

壷屋焼博物館に入ると備え付けのロッカーが目に入った。「しまった最初ここに来るべきだった」とつぶやいたようだ。受付の沖縄美人のお嬢さんに聴かれてしまった。笑顔で「お荷物預かりましょうか」と言ってロッカーでなく受付の横に預かってくれた。

沖縄の焼物の歴史・種類・製法・沖縄の暮らしと壷屋焼が分かり易く陳列されている。

沖縄では6600年前の縄文土器が発見されている。元々12世紀に徳之島(鹿児島県)伊仙町でカムイ焼が焼かれていた。本格的な焼物は16世紀後半 九州 朝鮮 中国 タイ ベトナムなどからの影響を受け沖縄独特の焼物が出来上がった。種類としては荒焼(アラヤキ)と上焼(ジョーヤキ)がある。荒焼は釉薬を掛けない陶器(ヤキシメ)、マンガン・泥釉を掛けた陶器。上焼は釉薬を掛けた陶器。

一階の奥にホールがあり壷屋焼の歴史がうちなー口(ぐち)「沖縄弁」で語られる。やわらかい語り口調は中国語のようでもあり韓国語のようでもあり耳に心地良い。

昨日 那覇空港からホテルまで乗ったタクシーの運転手さんから沖縄の焼物について教えてもらった。
壷屋(那覇市)には焼物の土が取れないために沖縄北部の読谷村や恩納村から土を運んだそうだ。昔 沖縄の北部は未開発で山賊が出た為、北部で窯場を築くことが出来なかった。沖縄なので海賊はいても山賊はいないのではないかと少し不思議な感じがしながら聴いた。

博物館の資料でも山賊の事は書いてなかった。那覇市壷屋あたりの土は耐火度が800度くらいで瓦しか出来なかった。北部の土は1200度位の耐火度があり陶器が焼けた事は記されてあった。

戦後 壷屋から沖縄の復興が始まった。壷屋の登り窯で多くの焼物が生産された。繁華街にある壷屋は1970年代に煙害問題などで登り窯からガス窯に代わって生産されるようになった。
登り窯は読谷村などに移され生産が始まった。人間国宝の金城次郎さんの窯も壷屋から読谷村に移された。

全館観て廻っていたらお昼になった。
荷物をそのまま受付のお嬢さんに預け、やちむん通りの途中にあった喫茶店に向かった。

外は24度と初夏のような蒸し暑さだ。冬の背広を着ていることもあり、余計に暑い。喫茶店に入るとお客さんがカキ氷を食べていた。

ソーキソバを注文した。沖縄の辛い唐辛子を掛けて汗を出しながら沖縄の味に舌鼓をうった。


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2007⁄03⁄07(Wed) 21:14   未分類 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top

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プロフィール

Author:どうしょう花
サラリーマン生活が残り一年になりました。
宮崎での単身赴任時代に始めた陶芸が十年になります。
昨年 年末に窯を持ちプロとしての環境が整いました。
サラリーマン生活を悔いのないように全力でラストランしたいと思います。
週末は、陶工への道にむかい励みます。
還暦前の老人が悪戦苦闘している日々を「どうしょう花」がエッセイにして毎週水曜日に掲載致します



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