益子春風陶器市では大きなチンコをぶらさげた大狸が置いてある広場に多数のテントが張られている。
各テントに陶芸作家がいて自作の作品を販売している。陶芸作家は個性的な風貌した方が多い。その中でも小林白兵衛のテントは作家も作品も異彩を放ていた。
小林のテントでは大きな岩のような花器が並べられ、小さなテントから はみだしている。
岩のような作品の横に小林がいた。少なくなった髪の毛を長く伸ばしている。長く伸ばした髪の毛を数組の三つ編みにし、後ろでまとめてチョンマゲにしている。
インディアンのように皮膚が赤黒く、端正な顔が少し笑っている。年齢不詳である。百歳にも見えるし、ボクより若くも見える。
作陶について小林から話を訊いた。
岩のような花器は穴窯で焼いている。一年に二回窯焚を行う。一回の窯焚に七日間薪を焚き続ける。作品は灰で埋め尽くされる。
昔から登り窯では焚き口付近に置かれた作品が灰を被り焼締めになる。この岩肌のようなゴツゴツした作品を灰被りという。
小林は意図的に一窯全てを灰被りにしてしまう。燃やされた灰が作品に掛かり自然の釉薬になって流れている。
花器の上から下へ釉薬が流れている。染み出した水が流れているように見える。
横に流れているものもある。ボディーに貝の模様が入っている。作品を横に寝かせて窯詰めしたそうだ。
ボクは陶芸を始めた頃、松灰を掛けた小さな花器が岩肌のようになって出来上がったことがある。
石清水(いわしみず)と命名して作品展に応募した。それ以降 何度も石清水を完成させようと試みているが全て失敗に終わっている。
ボクが求め続けている石清水の完成品がここにあった。
眺めていると荒れた岩肌から水が滲みだしチョロチョロ音をたてて流れ落ちる。岩肌に苔が生えている。見ていると周りに冷たい空気が流れ出す。小鳥が囀る。ボクは良い気持になった。
小林さんからプロフィールをもらい宿に戻った。
昭和33年生まれ、二十代の初めから、アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカなどを七年間旅したと記されていた。
次の朝 再び小林のテントに行った。テント横に置いてある台に腰掛けて話を訊いた。
いろんな国を旅したがインドが一番気に入り、永く滞在した。お金がなくなるとヨーロッパに行って稼いで又 インドで暮らしたそうだ。
ボクが「凄いですね」と言うと小林さんは「ヒッピーだったんです」と言った。
帰国して特に陶芸家を目指したわけではなかった。海の見える伊豆で家を探したが見つからず、知り合いから益子の古家を紹介された。
家賃が安かったので住み始めた。何か仕事をしなくてはならないと考えた。たまたま住まいが益子になったので焼物を始めたそうだ。
小林白兵衛と話していると何でも簡単に出来そうな気持ちになって来た。
ボクは定年後 焼き物で生活しようと考えている。「ちゃわん屋は茶碗でメシが食えないと言いますね」と不安そうにボクは言った。元ヒッピーは「なんとかなるよ」と自信に満ちた顔で、薄い髪をかき上げた。


各テントに陶芸作家がいて自作の作品を販売している。陶芸作家は個性的な風貌した方が多い。その中でも小林白兵衛のテントは作家も作品も異彩を放ていた。
小林のテントでは大きな岩のような花器が並べられ、小さなテントから はみだしている。
岩のような作品の横に小林がいた。少なくなった髪の毛を長く伸ばしている。長く伸ばした髪の毛を数組の三つ編みにし、後ろでまとめてチョンマゲにしている。
インディアンのように皮膚が赤黒く、端正な顔が少し笑っている。年齢不詳である。百歳にも見えるし、ボクより若くも見える。
作陶について小林から話を訊いた。
岩のような花器は穴窯で焼いている。一年に二回窯焚を行う。一回の窯焚に七日間薪を焚き続ける。作品は灰で埋め尽くされる。
昔から登り窯では焚き口付近に置かれた作品が灰を被り焼締めになる。この岩肌のようなゴツゴツした作品を灰被りという。
小林は意図的に一窯全てを灰被りにしてしまう。燃やされた灰が作品に掛かり自然の釉薬になって流れている。
花器の上から下へ釉薬が流れている。染み出した水が流れているように見える。
横に流れているものもある。ボディーに貝の模様が入っている。作品を横に寝かせて窯詰めしたそうだ。
ボクは陶芸を始めた頃、松灰を掛けた小さな花器が岩肌のようになって出来上がったことがある。
石清水(いわしみず)と命名して作品展に応募した。それ以降 何度も石清水を完成させようと試みているが全て失敗に終わっている。
ボクが求め続けている石清水の完成品がここにあった。
眺めていると荒れた岩肌から水が滲みだしチョロチョロ音をたてて流れ落ちる。岩肌に苔が生えている。見ていると周りに冷たい空気が流れ出す。小鳥が囀る。ボクは良い気持になった。
小林さんからプロフィールをもらい宿に戻った。
昭和33年生まれ、二十代の初めから、アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカなどを七年間旅したと記されていた。
次の朝 再び小林のテントに行った。テント横に置いてある台に腰掛けて話を訊いた。
いろんな国を旅したがインドが一番気に入り、永く滞在した。お金がなくなるとヨーロッパに行って稼いで又 インドで暮らしたそうだ。
ボクが「凄いですね」と言うと小林さんは「ヒッピーだったんです」と言った。
帰国して特に陶芸家を目指したわけではなかった。海の見える伊豆で家を探したが見つからず、知り合いから益子の古家を紹介された。
家賃が安かったので住み始めた。何か仕事をしなくてはならないと考えた。たまたま住まいが益子になったので焼物を始めたそうだ。
小林白兵衛と話していると何でも簡単に出来そうな気持ちになって来た。
ボクは定年後 焼き物で生活しようと考えている。「ちゃわん屋は茶碗でメシが食えないと言いますね」と不安そうにボクは言った。元ヒッピーは「なんとかなるよ」と自信に満ちた顔で、薄い髪をかき上げた。


濱田庄司 最後の弟子 明石庄作の工房を訪れた。
工房のある境内に入ると二人の若者が薪割りをしていた。工房の周りと登り窯の周りに真新しい薪と古い薪が整然と積まれていた。
年少の人のよさそうな若者が出てきて対応した。少し詳しく話を聞き始めると年長の体ががっしりした若者が代わって説明してくれた。薪は割ってから一年くらい乾燥させること、赤松であることなど説明した。工房の中も案内してくれた。大道具、小道具が整然と並べられた綺麗な作業場だ。
明石先生に会いたいと申し込んだ。
申し訳なさそうに「明石先生は展示会に行っている為、不在です」と言った。そして「車で会場まで送りましょう」と言ってくれたがゆっくり観ながら行きたかったので丁重に断り歩いて展示場へ向かった。
二人とも礼儀正しく気持ちの良い若者だった。
陶器の販売会社「株式会社やまに大塚」の二階にあるギャラリー緑陶里で「明石庄作 陶芸展」が行われていた。
三十畳ほどのギャラリーに塩釉、鉄釉、柿釉、刷毛目などの作品が150点余り、展示されていた。
明石庄作は濱田庄司の工房で二十年修行した。継承した濱田庄司の技法を基に益子焼をさらに発展させた作家として高い評価を受けている。
特に 濱田庄司がドイツ生まれの塩釉を益子焼に取り入れた。それを継承してさらに発展させた。明石庄作の作った器にはどれも細かい模様が細工されている。その細工された作品に塩釉が掛けられている。
整ったフォルム、濁りのない色調に作者の誠実さが伝わってきた。
展示場の入口に明石庄作の図録が置いてあった。手にとって見ていると「お持ち下さい」と封筒に入った図録を手渡してくれた。髪を短く刈り上げた明石庄作だった。
明石さんは修行時代に見た濱田庄司の様子を詳しく話してくれた。
濱田庄司に弟子入りした時、すでに人間国宝だった。昼間はマスコミの取材や業者の対応をした。作陶できるのは夜八時過ぎからだった。
濱田庄司が塩釉を積極的に取り入れたのは六十五歳頃だったそうだ。
明石さんは今年 還暦を迎えた。後五年で、その頃の濱田庄司と同じ年齢になる。「五年後、先生のようにエネルギッシュに活動できるだろうか」と懐かしそうに語った。
先生はお酒を呑まなかったので、夜 作陶出来たと裏話もしてくれた。
ギャラリーの片隅でプロモーションビデオが上映されていた。明石の土つくりからロクロ、焼成まで映し出されていた。濱田庄司に師事し二十年、独立して二十五年の年月で習得した技をふんだんに見せてくれた。
現在 多くの陶芸家が益子で作陶している。ほとんどの陶芸家は益子の土に信楽など作りやすい土をブレンドして使っている。
「お使いの土はブレンドですか」と明石さんに訊いた。「益子の土以外は使いません」と濱田庄司の最後の弟子は答えた。


工房のある境内に入ると二人の若者が薪割りをしていた。工房の周りと登り窯の周りに真新しい薪と古い薪が整然と積まれていた。
年少の人のよさそうな若者が出てきて対応した。少し詳しく話を聞き始めると年長の体ががっしりした若者が代わって説明してくれた。薪は割ってから一年くらい乾燥させること、赤松であることなど説明した。工房の中も案内してくれた。大道具、小道具が整然と並べられた綺麗な作業場だ。
明石先生に会いたいと申し込んだ。
申し訳なさそうに「明石先生は展示会に行っている為、不在です」と言った。そして「車で会場まで送りましょう」と言ってくれたがゆっくり観ながら行きたかったので丁重に断り歩いて展示場へ向かった。
二人とも礼儀正しく気持ちの良い若者だった。
陶器の販売会社「株式会社やまに大塚」の二階にあるギャラリー緑陶里で「明石庄作 陶芸展」が行われていた。
三十畳ほどのギャラリーに塩釉、鉄釉、柿釉、刷毛目などの作品が150点余り、展示されていた。
明石庄作は濱田庄司の工房で二十年修行した。継承した濱田庄司の技法を基に益子焼をさらに発展させた作家として高い評価を受けている。
特に 濱田庄司がドイツ生まれの塩釉を益子焼に取り入れた。それを継承してさらに発展させた。明石庄作の作った器にはどれも細かい模様が細工されている。その細工された作品に塩釉が掛けられている。
整ったフォルム、濁りのない色調に作者の誠実さが伝わってきた。
展示場の入口に明石庄作の図録が置いてあった。手にとって見ていると「お持ち下さい」と封筒に入った図録を手渡してくれた。髪を短く刈り上げた明石庄作だった。
明石さんは修行時代に見た濱田庄司の様子を詳しく話してくれた。
濱田庄司に弟子入りした時、すでに人間国宝だった。昼間はマスコミの取材や業者の対応をした。作陶できるのは夜八時過ぎからだった。
濱田庄司が塩釉を積極的に取り入れたのは六十五歳頃だったそうだ。
明石さんは今年 還暦を迎えた。後五年で、その頃の濱田庄司と同じ年齢になる。「五年後、先生のようにエネルギッシュに活動できるだろうか」と懐かしそうに語った。
先生はお酒を呑まなかったので、夜 作陶出来たと裏話もしてくれた。
ギャラリーの片隅でプロモーションビデオが上映されていた。明石の土つくりからロクロ、焼成まで映し出されていた。濱田庄司に師事し二十年、独立して二十五年の年月で習得した技をふんだんに見せてくれた。
現在 多くの陶芸家が益子で作陶している。ほとんどの陶芸家は益子の土に信楽など作りやすい土をブレンドして使っている。
「お使いの土はブレンドですか」と明石さんに訊いた。「益子の土以外は使いません」と濱田庄司の最後の弟子は答えた。


ゴールデンウイーク 第一回人間国宝の濱田庄司をもっと知りたくて、益子を訪れた。
この時期 益子では陶器市でにぎやかだ。益子駅からの道は両側に出店が並び陶器が溢れている。広場には無数のテントが張られ、それぞれのテントで窯元が作品を販売している。
幾つかのブースに立ち寄り、分厚い益子焼の茶碗を手に取り観賞した。素朴で温かみのある器が多い。
夕方 宿泊を予約しておいた「ペンション丸岳」にチェックインした。
濱田庄司の工房は、現在ある益子参考館の屋敷内にあった。
宿をペンション丸岳に決めたのは、地図で調べ益子参考館の一番近くにあったからだ。
風呂から上がり、食堂でビールを呑みながら七十五歳の女将さんに濱田庄司について訊いてみた。
この女将さんは二十歳でこの家に嫁に来た。三十四歳の時、ご主人を亡くされ女手一つで子供三人を育てた。この土地に住み始めて五十五年が過ぎている。
濱田庄司はボクの住んでいる稲城市の隣にある神奈川県川崎市溝ノ口で生まれた。板谷波山に師事し窯業の基礎を学んだ。卒業後 二年先輩の河合寛次郎と共に京都市立陶芸試験場で主に釉薬の研究をする。この頃 柳宗悦、富本憲吉やバーナード・リーチと知り合う。
イギリスに帰国するリーチに同行してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。ロンドンで個展を開催し成功する。
帰国後 沖縄の壷屋焼などで学び1930年から栃木県益子町で作陶を開始する。
1955年に第一回重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
1968年には文化勲章を受章した。
女将は人間国宝に認定された頃からの濱田庄司を詳しく知っていた。
濱田庄司が工房を改築した時、ペンション丸岳の下にある女将の土地に仮住まいしたことがある。女将は濱田庄司のことを先生と呼んだ。
先生のお孫さんが益子参考館の隣に工房を構えている事。最後のお弟子さんが参考館の近くで工房を構えている事を教えてもらった。
益子参考館は長屋門をくぐると右側に一号館がある。バーナード・リーチや濱田庄司の作品が展示されてあった。濱田庄司の作務衣や洋行したとき着たと思われる背広なども展示されていた。
二号館、三号館には濱田庄司が蒐集した李朝などの陶器が展示されていた。
一番奥に藁葺きの工房がそのまま残されていた。中に入ると蹴ロクロが並べられてあり、濱田庄司が今でもロクロに向かっていそうな雰囲気が漂っていた。
工房内の北側には十畳ほどの広さで暗い土室があった。粘土置き場の広さから大量の作品が製作されたことが推測された。
工房の隣に登り窯があった。今でも窯焚ができそうな状態で保存されている。濱田庄司が焚き口に立ち、弟子達が忙しく薪を投げ込む。そんな熱気が窯の周りから蘇ってきた。
益子参考館は緩やかな傾斜の土地に建てられている。周りが森に囲まれ、新緑の葉っぱから木漏れ日が差し込み、空気が輝いてみえる。森の中から小鳥のさえずりが聞える。
濱田庄司の作品は、この美しい自然の中で製作されたのだ。


この時期 益子では陶器市でにぎやかだ。益子駅からの道は両側に出店が並び陶器が溢れている。広場には無数のテントが張られ、それぞれのテントで窯元が作品を販売している。
幾つかのブースに立ち寄り、分厚い益子焼の茶碗を手に取り観賞した。素朴で温かみのある器が多い。
夕方 宿泊を予約しておいた「ペンション丸岳」にチェックインした。
濱田庄司の工房は、現在ある益子参考館の屋敷内にあった。
宿をペンション丸岳に決めたのは、地図で調べ益子参考館の一番近くにあったからだ。
風呂から上がり、食堂でビールを呑みながら七十五歳の女将さんに濱田庄司について訊いてみた。
この女将さんは二十歳でこの家に嫁に来た。三十四歳の時、ご主人を亡くされ女手一つで子供三人を育てた。この土地に住み始めて五十五年が過ぎている。
濱田庄司はボクの住んでいる稲城市の隣にある神奈川県川崎市溝ノ口で生まれた。板谷波山に師事し窯業の基礎を学んだ。卒業後 二年先輩の河合寛次郎と共に京都市立陶芸試験場で主に釉薬の研究をする。この頃 柳宗悦、富本憲吉やバーナード・リーチと知り合う。
イギリスに帰国するリーチに同行してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。ロンドンで個展を開催し成功する。
帰国後 沖縄の壷屋焼などで学び1930年から栃木県益子町で作陶を開始する。
1955年に第一回重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
1968年には文化勲章を受章した。
女将は人間国宝に認定された頃からの濱田庄司を詳しく知っていた。
濱田庄司が工房を改築した時、ペンション丸岳の下にある女将の土地に仮住まいしたことがある。女将は濱田庄司のことを先生と呼んだ。
先生のお孫さんが益子参考館の隣に工房を構えている事。最後のお弟子さんが参考館の近くで工房を構えている事を教えてもらった。
益子参考館は長屋門をくぐると右側に一号館がある。バーナード・リーチや濱田庄司の作品が展示されてあった。濱田庄司の作務衣や洋行したとき着たと思われる背広なども展示されていた。
二号館、三号館には濱田庄司が蒐集した李朝などの陶器が展示されていた。
一番奥に藁葺きの工房がそのまま残されていた。中に入ると蹴ロクロが並べられてあり、濱田庄司が今でもロクロに向かっていそうな雰囲気が漂っていた。
工房内の北側には十畳ほどの広さで暗い土室があった。粘土置き場の広さから大量の作品が製作されたことが推測された。
工房の隣に登り窯があった。今でも窯焚ができそうな状態で保存されている。濱田庄司が焚き口に立ち、弟子達が忙しく薪を投げ込む。そんな熱気が窯の周りから蘇ってきた。
益子参考館は緩やかな傾斜の土地に建てられている。周りが森に囲まれ、新緑の葉っぱから木漏れ日が差し込み、空気が輝いてみえる。森の中から小鳥のさえずりが聞える。
濱田庄司の作品は、この美しい自然の中で製作されたのだ。


「陶芸をなさいますか」殿様から聞かれた最初の言葉だ。
ボクは直立不動で「はい やっております」と答えた。
「何を作っておられますか」と聞かれ「はい 信楽の土で白化粧をやっております」続いて「良いものができますか」と聞かれる。ボクは「ほとんど満足なものは出来ません」と答える。「窯は何で焚いていますか」「はい 灯油で焼いております」
陶芸家 細川護煕さんとの会話だ。そして図録にサインを頂いた。
新聞に日本橋のデパートで開催されている第七十九代総理大臣 細川護煕さんの個展が紹介されていた。
宮崎で陶芸を始めた頃、陶芸雑誌で細川さんが神奈川県湯河原に工房を持ち、陶芸をしている事を知った。その後 小学館が出版した「やきものを楽しむ」に細川護煕の晴耕雨陶が連載された。
六十歳を区切りに三十年あまり奉職した政治の世界から退いたと記されてあった。新聞記者から参議院議員、熊本県知事、衆議院議員、そして内閣総理大臣まで上り詰めた男の潔い引き際と陶芸家への転身に男の美学をみた。
「細川護煕 数奇の世界展」の入場料 八百円を払い入場する。
会場内はライトを落とし薄暗く設営されている。ガラスで出来たケースの中がライトアップされ細川さんの作品が並べてあった。
楽、高麗、唐津、志野、信楽など作風が多彩だ。特に楽風の「黒茶碗」は素晴らしい。
会場の中ほどで細川さんがサインをしていた。総理大臣を務めていた十四、五年前によくテレビ見た顔だ。
会場の出口付近にあった図録の販売所に急いだ。一冊五千円は高いと思ったがサインを貰いたい一心で購入した。
家に帰り図録をめくった。器の図録と言うよりほとんどが細川さんの写真集だ。
あまり陶芸の参考にならないなと思っているとカミサンが帰宅し、いきなりいくらしたかと訊く。普通の図録は二千円から二千五百円と相場を教える。続いて「細川さんの図録はいくら」と訊いて来た。ちょっと躊躇ったが五千円と答える。
カミサンから「信じられない」と大きな声が発せられた。
覗き込んできて図録でなく写真集なので益々驚いたようだ。
ボクは「自筆のサイン付きだよ」と言うと「情け無い」と返って来た。
カミサンは自分の亭主がアイドルの写真集にサインをもらって喜んでいる女学生の姿のようで情け無いと思ったのだろう。
細川さんは旧肥後熊本藩主細川家の第18代当主である。代が代ならボクごとき庶民がお目通りできることはない。声を掛けて頂き、直筆のサインまで頂戴したのだ。
「無礼者 殿様の図録に対して、情けないとは何事だ。殿様のお耳に入れば、軽くて離縁、悪くすると打ち首の沙汰でござるぞ」
とボクは心の中でカミサンに言った。
「平成の代で良かったわい」と図録をめくっていくうちにチョンマゲのない殿様の写真をみて、五千円はチト高いかなと感じ始めた。
失望させた罪滅ぼしに、カミサンを寿司屋に誘った。回転する寿司を二人で腹いっぱい食べ、ビールと日本酒付きで三千円だった。
やっぱり殿様の写真集は、高かった か・・・
いや この図録 男の美学を学ぶ指南書である。決して高くないのだ。


江戸時代だったらボクはこんなにかっこよかったかもしれない!
ボクは直立不動で「はい やっております」と答えた。
「何を作っておられますか」と聞かれ「はい 信楽の土で白化粧をやっております」続いて「良いものができますか」と聞かれる。ボクは「ほとんど満足なものは出来ません」と答える。「窯は何で焚いていますか」「はい 灯油で焼いております」
陶芸家 細川護煕さんとの会話だ。そして図録にサインを頂いた。
新聞に日本橋のデパートで開催されている第七十九代総理大臣 細川護煕さんの個展が紹介されていた。
宮崎で陶芸を始めた頃、陶芸雑誌で細川さんが神奈川県湯河原に工房を持ち、陶芸をしている事を知った。その後 小学館が出版した「やきものを楽しむ」に細川護煕の晴耕雨陶が連載された。
六十歳を区切りに三十年あまり奉職した政治の世界から退いたと記されてあった。新聞記者から参議院議員、熊本県知事、衆議院議員、そして内閣総理大臣まで上り詰めた男の潔い引き際と陶芸家への転身に男の美学をみた。
「細川護煕 数奇の世界展」の入場料 八百円を払い入場する。
会場内はライトを落とし薄暗く設営されている。ガラスで出来たケースの中がライトアップされ細川さんの作品が並べてあった。
楽、高麗、唐津、志野、信楽など作風が多彩だ。特に楽風の「黒茶碗」は素晴らしい。
会場の中ほどで細川さんがサインをしていた。総理大臣を務めていた十四、五年前によくテレビ見た顔だ。
会場の出口付近にあった図録の販売所に急いだ。一冊五千円は高いと思ったがサインを貰いたい一心で購入した。
家に帰り図録をめくった。器の図録と言うよりほとんどが細川さんの写真集だ。
あまり陶芸の参考にならないなと思っているとカミサンが帰宅し、いきなりいくらしたかと訊く。普通の図録は二千円から二千五百円と相場を教える。続いて「細川さんの図録はいくら」と訊いて来た。ちょっと躊躇ったが五千円と答える。
カミサンから「信じられない」と大きな声が発せられた。
覗き込んできて図録でなく写真集なので益々驚いたようだ。
ボクは「自筆のサイン付きだよ」と言うと「情け無い」と返って来た。
カミサンは自分の亭主がアイドルの写真集にサインをもらって喜んでいる女学生の姿のようで情け無いと思ったのだろう。
細川さんは旧肥後熊本藩主細川家の第18代当主である。代が代ならボクごとき庶民がお目通りできることはない。声を掛けて頂き、直筆のサインまで頂戴したのだ。
「無礼者 殿様の図録に対して、情けないとは何事だ。殿様のお耳に入れば、軽くて離縁、悪くすると打ち首の沙汰でござるぞ」
とボクは心の中でカミサンに言った。
「平成の代で良かったわい」と図録をめくっていくうちにチョンマゲのない殿様の写真をみて、五千円はチト高いかなと感じ始めた。
失望させた罪滅ぼしに、カミサンを寿司屋に誘った。回転する寿司を二人で腹いっぱい食べ、ビールと日本酒付きで三千円だった。
やっぱり殿様の写真集は、高かった か・・・
いや この図録 男の美学を学ぶ指南書である。決して高くないのだ。


江戸時代だったらボクはこんなにかっこよかったかもしれない!
林寧彦さんから「縁あって、渋谷区神宮前の(Gallery 蓮さん)で、個展を開きます」とメルマガで案内が届いた。
林さんはサラリーマン陶芸家としてスタートした。陶芸界の超有名人だ。
ボクが林さんを知ったのは八年前に単身赴任先の宮崎で陶芸を始めた時だった。
陶芸雑誌「つくる陶次郎」に連載されていた林寧彦さんの「単身赴任・焼きもの粉戦記」を読んでからだ。
林さんは福岡で単身赴任を始め、趣味の陶芸にのめり込んで行った。十階のマンションにロクロと陶芸窯を持ち込み作陶した。ボクは創刊号から全て取り寄せ読み漁った。
宮崎で陶芸に熱中できたのは林さんの影響が大きい。林さんの真似をした訳ではないが同じ十階の部屋にロクロを入れた。しかし 陶芸窯を入れる勇気は真似できなかった。
数年前、毎年秋に 日本橋の三越で展示される「日本伝統工芸展」で林さんの入選作品に出会った。それまで一度も会った事のない林さんだったが自分のことのように嬉しかった。
今回で五回目の個展だそうだ。ボクはグループ展を含め三回足を運んでいる。初めてお会いしたのは赤坂の「ギャラリー乾」だったと思う。エッセイに出てくる林さんはひょうきんなイメージがあった。最初の印象は都会的でクレバーな感じがした。話しているうちにエッセイに登場する気さくな林さんがそこにいた。
林さんの作品には全て絵が描かれている。林さんは「器に絵が描けなかったら陶芸をしていなかっただろう」と言った。
最初に見た布目白化粧から漆器と見間違うような黒釉と次々に新しいものを見せてくれる。特に今回の黒釉は白木蓮の白い花びらが浮き上がり見事だった。
今回 緑釉と銘打った林さんの新しい世界をみた。「あえて名前を織部としなかったのです」と言う林さんに力強く進化を続ける陶芸家の意気込みを感じた。
ブログ「窓際の陶芸家」のコメント欄に林さんから「ギャラリーに置いてあったシーサーに気付きましたか」と書き込みがあった。ボクは作品を観るのに集中していて全く気付かなかった。
誰かのブログにGallery 蓮のオーナーが綺麗だったと書き込みがあったが、それも気付かなかった。残念・・・
案内状に「縁あって、渋谷区神宮前の(Gallery 蓮さん)で、・・・」とあった。チョイト気になるなー 今度 オーナーを観に行こう。
林さんはサラリーマン陶芸家としてスタートした。陶芸界の超有名人だ。
ボクが林さんを知ったのは八年前に単身赴任先の宮崎で陶芸を始めた時だった。
陶芸雑誌「つくる陶次郎」に連載されていた林寧彦さんの「単身赴任・焼きもの粉戦記」を読んでからだ。
林さんは福岡で単身赴任を始め、趣味の陶芸にのめり込んで行った。十階のマンションにロクロと陶芸窯を持ち込み作陶した。ボクは創刊号から全て取り寄せ読み漁った。
宮崎で陶芸に熱中できたのは林さんの影響が大きい。林さんの真似をした訳ではないが同じ十階の部屋にロクロを入れた。しかし 陶芸窯を入れる勇気は真似できなかった。
数年前、毎年秋に 日本橋の三越で展示される「日本伝統工芸展」で林さんの入選作品に出会った。それまで一度も会った事のない林さんだったが自分のことのように嬉しかった。
今回で五回目の個展だそうだ。ボクはグループ展を含め三回足を運んでいる。初めてお会いしたのは赤坂の「ギャラリー乾」だったと思う。エッセイに出てくる林さんはひょうきんなイメージがあった。最初の印象は都会的でクレバーな感じがした。話しているうちにエッセイに登場する気さくな林さんがそこにいた。
林さんの作品には全て絵が描かれている。林さんは「器に絵が描けなかったら陶芸をしていなかっただろう」と言った。
最初に見た布目白化粧から漆器と見間違うような黒釉と次々に新しいものを見せてくれる。特に今回の黒釉は白木蓮の白い花びらが浮き上がり見事だった。
今回 緑釉と銘打った林さんの新しい世界をみた。「あえて名前を織部としなかったのです」と言う林さんに力強く進化を続ける陶芸家の意気込みを感じた。
ブログ「窓際の陶芸家」のコメント欄に林さんから「ギャラリーに置いてあったシーサーに気付きましたか」と書き込みがあった。ボクは作品を観るのに集中していて全く気付かなかった。
誰かのブログにGallery 蓮のオーナーが綺麗だったと書き込みがあったが、それも気付かなかった。残念・・・
案内状に「縁あって、渋谷区神宮前の(Gallery 蓮さん)で、・・・」とあった。チョイト気になるなー 今度 オーナーを観に行こう。
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