九州育ちのボクは、うどんは関西風と決めている。東京では、関西風のうどんを食べさせる店が少ないので蕎麦を食べていた。
仕事で東村山市(東京都)に来るようになって武蔵野うどんを知った。
東村山市は、武蔵野台地の西側に位置する。台地の為、水稲の栽培に向かず昔から小麦の生産が行われてきた。この小麦で武蔵野うどんは、作られる。
武蔵野うどんは、薄茶色で武骨に太くこしが強い。麺は、ムチムチした弾力があり、みっちりした重量感がある。手打ちで作られるため不ぞろいな麺だ。子供の頃 大分で食べたダンゴ汁の麺に似ている。
ムチムチした弾力のある麺は、九州や四国の麺も同じだ。九州や四国の麺は、色が白く肌理(きめ)が細かく若い女性の肌の弾力。武蔵野の麺は、熟女の重量感のある弾力。どちらもつるつる輝いてきれいだ。
ざるに乗った重量感のある麺を肉汁で食べる。不ぞろいな麺に肉汁が絡み旨い。
ボクは、一週間に一度 武蔵野うどんを食べさせる店「ますや」に入る。ますやのうどんは、肉汁に揚げたての野菜天ぷらが付いてくる。
ますやは、七十代の女将が切り盛りしている。手伝いのおばちゃんも同じ位の歳で腰も背中も曲がった後期高齢者のお店だ。お客の年齢構成も高く、店が高齢者の集まり場所になっている。ここの客の中でボクは、まだ はなたれ小僧だ。ここの女将は、はなたれ小僧のボクを先生と呼ぶ。
最初にお店に入った時、ボクは店に飾ってあった備前の壷を褒めた。そして趣味で陶芸をしていると話した。それから焼物好きの女将は、ボクを先生と呼ぶようになってしまった。
先生と呼ばれる事は、嬉しくないのだがうどんの他に野菜の煮つけや漬物をサービスしてくれるのでそのままにしている。
女将がボクのことを先生と呼ぶので手伝いのおばちゃんは、最近までボクのことを医者と思っていたようだ。これには、チョイトまいった。
店の奥に入ると土間に大きな竈(かまど)があり、大きな釜が乗っている。薪小屋には、切りそろえた薪が積まれている。四十年間 毎朝 この竈で薪が焚かれ大釜でうどんを茹でている。竈から大量の灰がでる。
灰から釉薬ができることを話し、女将に一生使えるほど大量の灰をもらった。
焼物の釉薬に蕎麦釉はあるが、うどん釉はない。
蕎麦釉は、色合いが蕎麦に似ているために名づけられた釉薬である。鉄分を含んだ土石を木灰と配合して作っている。
はなたれ小僧のボクは、長年 竈からでた煙で煤けた店の壁を見ながら薄茶色の武蔵野うどんに相応しいうどん釉が出来ないか思案している。
仕事で東村山市(東京都)に来るようになって武蔵野うどんを知った。
東村山市は、武蔵野台地の西側に位置する。台地の為、水稲の栽培に向かず昔から小麦の生産が行われてきた。この小麦で武蔵野うどんは、作られる。
武蔵野うどんは、薄茶色で武骨に太くこしが強い。麺は、ムチムチした弾力があり、みっちりした重量感がある。手打ちで作られるため不ぞろいな麺だ。子供の頃 大分で食べたダンゴ汁の麺に似ている。
ムチムチした弾力のある麺は、九州や四国の麺も同じだ。九州や四国の麺は、色が白く肌理(きめ)が細かく若い女性の肌の弾力。武蔵野の麺は、熟女の重量感のある弾力。どちらもつるつる輝いてきれいだ。
ざるに乗った重量感のある麺を肉汁で食べる。不ぞろいな麺に肉汁が絡み旨い。
ボクは、一週間に一度 武蔵野うどんを食べさせる店「ますや」に入る。ますやのうどんは、肉汁に揚げたての野菜天ぷらが付いてくる。
ますやは、七十代の女将が切り盛りしている。手伝いのおばちゃんも同じ位の歳で腰も背中も曲がった後期高齢者のお店だ。お客の年齢構成も高く、店が高齢者の集まり場所になっている。ここの客の中でボクは、まだ はなたれ小僧だ。ここの女将は、はなたれ小僧のボクを先生と呼ぶ。
最初にお店に入った時、ボクは店に飾ってあった備前の壷を褒めた。そして趣味で陶芸をしていると話した。それから焼物好きの女将は、ボクを先生と呼ぶようになってしまった。
先生と呼ばれる事は、嬉しくないのだがうどんの他に野菜の煮つけや漬物をサービスしてくれるのでそのままにしている。
女将がボクのことを先生と呼ぶので手伝いのおばちゃんは、最近までボクのことを医者と思っていたようだ。これには、チョイトまいった。
店の奥に入ると土間に大きな竈(かまど)があり、大きな釜が乗っている。薪小屋には、切りそろえた薪が積まれている。四十年間 毎朝 この竈で薪が焚かれ大釜でうどんを茹でている。竈から大量の灰がでる。
灰から釉薬ができることを話し、女将に一生使えるほど大量の灰をもらった。
焼物の釉薬に蕎麦釉はあるが、うどん釉はない。
蕎麦釉は、色合いが蕎麦に似ているために名づけられた釉薬である。鉄分を含んだ土石を木灰と配合して作っている。
はなたれ小僧のボクは、長年 竈からでた煙で煤けた店の壁を見ながら薄茶色の武蔵野うどんに相応しいうどん釉が出来ないか思案している。
桃青窯の三崎哲郎さんから個展の案内が届いた。場所がギャラリー蓮となっていた。
ギャラリー蓮は、以前 三崎さんのブログで美人のオーナーがいると紹介されていた。ボクは、オーナーを見られる絶好のチャンスと勇んで出かけた。
昨年 三崎さんは、日本伝統工芸展 伝統工芸新作展 日本陶芸展に立て続けに入選した。
三崎さんの陶暦は、52歳で始めて、今年で12年。
陶暦 年齢ともボクより先輩である。しかし大きく違うわけでない。
ギャラリーに入りボクは、圧倒された。大きな公募展に入選した人気作家の名前に圧倒されたのでなく作品自身から発してくるオーラーが強いのだ。
キャッチコピーに「黒の包容力・・・やんちゃっ子のように自己主張する釉薬のその色々をひとつのベクトルにまとめてしまうそんな力」とあった。黄瀬戸や白化粧を黒釉薬で包んだ器だった。見事に調和している。一つひとつ手に取り堪能させて頂いた。
ボクのエッセイ「窓際のロクロ挽き」の中で、展覧会の入選作品が50センチ以上の大物ばかりなものに対して不信感を持ったことを記した。陶芸を始めた頃、自分の力以上の大きな公募展に応募し選外になった時のことを書いたのだ。
そのエッセイを読んだ三崎さんから、大物作品を作る意義を次のように指摘された。
「大物作品作りは、日常で使う小物食器の類の質を高めるためだ。50センチの皿を挽ければ30センチの皿は、自信をもって楽に挽ける。つまり力が抜けるのだ30センチしか挽けなければ30センチは、いつも緊張の世界で力を抜くことは難しくなる。大物の効用は、小物のためにある。
日常で使う小物食器の類の質を高めるためである。ここで言う質とは、確かな技術で丁寧に作り、壊れる日まで飽きずに使ってもらえる普遍性をもつとも言えよう。誤解を恐れずに言えば陶芸の場合、苦労して苦労して作ったものにいいものはない。いいものは、あっさりできる」
そのエッセイは、陶芸を始めた頃に書いたもので今読み返すと大変恥ずかしいと思う。三崎さんから指摘されたことに何の反論もできなかった。
展示されている作品を見て三崎さんの作陶に対する心構えが伝わってきた。作品に圧倒されてギャラリー蓮を後にした。
ギャラリーを出て駅まで歩いた。段々 衝撃から開放されて 美人のオーナーを見るのを忘れていた事に気が付いた。残念 次回は、個展の案内が無いときに出かけよう。


ギャラリー蓮は、以前 三崎さんのブログで美人のオーナーがいると紹介されていた。ボクは、オーナーを見られる絶好のチャンスと勇んで出かけた。
昨年 三崎さんは、日本伝統工芸展 伝統工芸新作展 日本陶芸展に立て続けに入選した。
三崎さんの陶暦は、52歳で始めて、今年で12年。
陶暦 年齢ともボクより先輩である。しかし大きく違うわけでない。
ギャラリーに入りボクは、圧倒された。大きな公募展に入選した人気作家の名前に圧倒されたのでなく作品自身から発してくるオーラーが強いのだ。
キャッチコピーに「黒の包容力・・・やんちゃっ子のように自己主張する釉薬のその色々をひとつのベクトルにまとめてしまうそんな力」とあった。黄瀬戸や白化粧を黒釉薬で包んだ器だった。見事に調和している。一つひとつ手に取り堪能させて頂いた。
ボクのエッセイ「窓際のロクロ挽き」の中で、展覧会の入選作品が50センチ以上の大物ばかりなものに対して不信感を持ったことを記した。陶芸を始めた頃、自分の力以上の大きな公募展に応募し選外になった時のことを書いたのだ。
そのエッセイを読んだ三崎さんから、大物作品を作る意義を次のように指摘された。
「大物作品作りは、日常で使う小物食器の類の質を高めるためだ。50センチの皿を挽ければ30センチの皿は、自信をもって楽に挽ける。つまり力が抜けるのだ30センチしか挽けなければ30センチは、いつも緊張の世界で力を抜くことは難しくなる。大物の効用は、小物のためにある。
日常で使う小物食器の類の質を高めるためである。ここで言う質とは、確かな技術で丁寧に作り、壊れる日まで飽きずに使ってもらえる普遍性をもつとも言えよう。誤解を恐れずに言えば陶芸の場合、苦労して苦労して作ったものにいいものはない。いいものは、あっさりできる」
そのエッセイは、陶芸を始めた頃に書いたもので今読み返すと大変恥ずかしいと思う。三崎さんから指摘されたことに何の反論もできなかった。
展示されている作品を見て三崎さんの作陶に対する心構えが伝わってきた。作品に圧倒されてギャラリー蓮を後にした。
ギャラリーを出て駅まで歩いた。段々 衝撃から開放されて 美人のオーナーを見るのを忘れていた事に気が付いた。残念 次回は、個展の案内が無いときに出かけよう。


春は、別れと出会いの季節だ。木々は、古い木の葉を落として新しい葉っぱをつける。その交代式を祝うように花が咲き乱れる。その周りをミツバチが踊り、はやしたてる。
学校の卒業式と入学式 サラリーマンの定年退職と入社式が行われる。
テレビやラジオの番組も大きく模様替えをする。
ボクは、仕事の移動中に車の中でラジオを聞くことが多い。「きょうも元気でわくわくラジオ」の中で午前11時頃「私の本棚」がある。小説やエッセイをアナウンサーや役者 歌手が朗読する番組だ。近頃は、エッセイが多かったので楽しみ聞いている。ラジオから流れる朗読は、実際に読むより感動が大きく伝わってくる。
三月の中頃に 歌手 さだまさし著「いつも僕の見方」を斉藤政直アナウンサーが朗読していた。それが「私の本棚」の最終回だった。
さだまさしが新幹線で出会った車掌さんの話だ。
仕事を終えて京都から新幹線に飛び乗るところから始まる。
車掌からサインをお願いされる。汚れた訳ありの色紙を手渡される。
その色紙は、三年前に さだまさしファンの娘さんから頼まれたもの。三年間カバンの中に持ち歩いていた。
三年間に三度この車掌さんの乗務する車両に さだまさしが乗り合わせた。昔かたぎの車掌は、乗務中くつろいでいる乗客にサインをお願いする事ができなかった。
車掌は、この日の乗務が定年で最後になる。最後の乗務した新幹線に さだまさしが乗ってきた。車掌は、この世の中に神様がいてご褒美に さだまさしとめぐり合わせてくれたと思った。そして 車掌は、さだまさしに サインをお願いした。車掌の娘さんは、この年の春に結婚すると言う。
ハンドルをにぎって この話を聴いた。ボクは、目の前が曇ってきて車を道路の端に止めた。
この朗読が終わり「私の本棚」は、ボクの生まれた同じ年の同じ月 昭和24年1月4日より始まった。ボクより三日遅れで誕生したのだ。そして平成20年3月17日まで59年2ヶ月間にわたり放送された朗読番組だった。最初の放送は、川端康成の作品を朗読家 樫村治子が朗読したと聞いた。
次の日 多くのリスナーから惜しむ声が寄せられた。その中に二十歳で目が不自由になった方から一番の楽しみだったという声が届いていた。
テレビは、20年 ラジオは、30年を越えて続いている番組を長寿番組という。ラジオ体操 79年間、株式市況 83年間、気象通報 62年間と特殊な番組以外では、一番長寿な番組だった。
私の本棚が長く続いた訳が良く分かった。
この番組で知り、図書館で借りた浅田次郎著「つばさよつばさ」の中に浅田次郎は、自分の書いた原稿を必ず音読すると書いてあった。音読する事により推敲しているのだろう。
言葉は、目からより耳からの方が心の中に強く突き刺さる。
学校の卒業式と入学式 サラリーマンの定年退職と入社式が行われる。
テレビやラジオの番組も大きく模様替えをする。
ボクは、仕事の移動中に車の中でラジオを聞くことが多い。「きょうも元気でわくわくラジオ」の中で午前11時頃「私の本棚」がある。小説やエッセイをアナウンサーや役者 歌手が朗読する番組だ。近頃は、エッセイが多かったので楽しみ聞いている。ラジオから流れる朗読は、実際に読むより感動が大きく伝わってくる。
三月の中頃に 歌手 さだまさし著「いつも僕の見方」を斉藤政直アナウンサーが朗読していた。それが「私の本棚」の最終回だった。
さだまさしが新幹線で出会った車掌さんの話だ。
仕事を終えて京都から新幹線に飛び乗るところから始まる。
車掌からサインをお願いされる。汚れた訳ありの色紙を手渡される。
その色紙は、三年前に さだまさしファンの娘さんから頼まれたもの。三年間カバンの中に持ち歩いていた。
三年間に三度この車掌さんの乗務する車両に さだまさしが乗り合わせた。昔かたぎの車掌は、乗務中くつろいでいる乗客にサインをお願いする事ができなかった。
車掌は、この日の乗務が定年で最後になる。最後の乗務した新幹線に さだまさしが乗ってきた。車掌は、この世の中に神様がいてご褒美に さだまさしとめぐり合わせてくれたと思った。そして 車掌は、さだまさしに サインをお願いした。車掌の娘さんは、この年の春に結婚すると言う。
ハンドルをにぎって この話を聴いた。ボクは、目の前が曇ってきて車を道路の端に止めた。
この朗読が終わり「私の本棚」は、ボクの生まれた同じ年の同じ月 昭和24年1月4日より始まった。ボクより三日遅れで誕生したのだ。そして平成20年3月17日まで59年2ヶ月間にわたり放送された朗読番組だった。最初の放送は、川端康成の作品を朗読家 樫村治子が朗読したと聞いた。
次の日 多くのリスナーから惜しむ声が寄せられた。その中に二十歳で目が不自由になった方から一番の楽しみだったという声が届いていた。
テレビは、20年 ラジオは、30年を越えて続いている番組を長寿番組という。ラジオ体操 79年間、株式市況 83年間、気象通報 62年間と特殊な番組以外では、一番長寿な番組だった。
私の本棚が長く続いた訳が良く分かった。
この番組で知り、図書館で借りた浅田次郎著「つばさよつばさ」の中に浅田次郎は、自分の書いた原稿を必ず音読すると書いてあった。音読する事により推敲しているのだろう。
言葉は、目からより耳からの方が心の中に強く突き刺さる。
渋谷から田園都市線に乗り たまプラーザ駅で電車を降りた。改札口をとおり北口から出る。駅前は、広場になっていて半分から右にロータリーがあり真ん中にオブジェがある。左半分の広場は、フラワーポットが並べられている。お洒落な街である。
ギャラリー寛は、駅から歩いて五六分のところにある。横浜でも有名な瀟洒な住宅街にある。
オーナーは、ボクのブログ仲間である鋤先寛澄さんだ。
鋤先さんは、IT企業の総務に勤務していた。名古屋に単身赴任している時、焼物とであった。鋤先さんは、焼物だけでなく染物や革製品にも興味をもった。そして一番興味をもったのがそれを作る人達だった。
鋤先さんの単身赴任生活は、三年で終わり本社に戻った。本社に戻ったが焼物とそれを作る人が忘れられず会社を辞めてギャラリーを開業した。
ギャラリー寛は、鋤先さんの夢の詰まった空間である。
展示棚 一枚板のドア 皿で作ったドアノブ 窓 床 テーブル 椅子は、全てオーダーだ。一つひとつに鋤先さんのこだわりが見られる。
展示された作品は、鋤先さんが直接窯業地に行き、買い求めたものだ。気に入った作品があると作家の話を聞き買い付ける。作品が良くても作家の考えや姿勢に共感がもてない場合、ここの棚に並ぶ事はない。
鋤先さんは、器を通して作家とユーザーの橋渡しがギャラリーの仕事だと考えている。自分が自信をもって勧められる器でなくては、お客さんの満足を得られないと信じている。
店内には、常滑焼 備前焼 瀬戸焼 美濃焼 信楽焼 伊賀焼 渋草焼(飛騨高山)の器が並んでいる。全て鋤先さんが出会った作家の作品である。その他に鹿児島の女流作家の作品もある。
陶器のほかに皮製品 染物のコーナーがある。革製品も染物も鋤先さんが出会った作家の作品だ。
ギャラリーの中央にある椅子に座って鋤先さんの話を聞いた。人懐っこい笑顔に品の良い髭がカッコイイ。数ヶ月前までサラリーマンをしていたと思えないほど板についている。鋤先さんは、目を輝かせて作品と作家について語る。
ギャラリー寛のキャッチコピー 「美・粋・遊・楽ー暮らしの中で、美を粋に遊び楽しむー」作り手の温もりが伝わってくる空間である。棚に並んでいる作品は、一つひとつが手元に置いて眺めたくなる。
ボクも将来 鋤先さんに見初められる作家になり、ここの棚に作品を並べてもらえるよう精進したいと思う。


ギャラリー寛 ホームページ http://www.geocities.jp/hiro_bnet/
ギャラリー寛は、駅から歩いて五六分のところにある。横浜でも有名な瀟洒な住宅街にある。
オーナーは、ボクのブログ仲間である鋤先寛澄さんだ。
鋤先さんは、IT企業の総務に勤務していた。名古屋に単身赴任している時、焼物とであった。鋤先さんは、焼物だけでなく染物や革製品にも興味をもった。そして一番興味をもったのがそれを作る人達だった。
鋤先さんの単身赴任生活は、三年で終わり本社に戻った。本社に戻ったが焼物とそれを作る人が忘れられず会社を辞めてギャラリーを開業した。
ギャラリー寛は、鋤先さんの夢の詰まった空間である。
展示棚 一枚板のドア 皿で作ったドアノブ 窓 床 テーブル 椅子は、全てオーダーだ。一つひとつに鋤先さんのこだわりが見られる。
展示された作品は、鋤先さんが直接窯業地に行き、買い求めたものだ。気に入った作品があると作家の話を聞き買い付ける。作品が良くても作家の考えや姿勢に共感がもてない場合、ここの棚に並ぶ事はない。
鋤先さんは、器を通して作家とユーザーの橋渡しがギャラリーの仕事だと考えている。自分が自信をもって勧められる器でなくては、お客さんの満足を得られないと信じている。
店内には、常滑焼 備前焼 瀬戸焼 美濃焼 信楽焼 伊賀焼 渋草焼(飛騨高山)の器が並んでいる。全て鋤先さんが出会った作家の作品である。その他に鹿児島の女流作家の作品もある。
陶器のほかに皮製品 染物のコーナーがある。革製品も染物も鋤先さんが出会った作家の作品だ。
ギャラリーの中央にある椅子に座って鋤先さんの話を聞いた。人懐っこい笑顔に品の良い髭がカッコイイ。数ヶ月前までサラリーマンをしていたと思えないほど板についている。鋤先さんは、目を輝かせて作品と作家について語る。
ギャラリー寛のキャッチコピー 「美・粋・遊・楽ー暮らしの中で、美を粋に遊び楽しむー」作り手の温もりが伝わってくる空間である。棚に並んでいる作品は、一つひとつが手元に置いて眺めたくなる。
ボクも将来 鋤先さんに見初められる作家になり、ここの棚に作品を並べてもらえるよう精進したいと思う。


ギャラリー寛 ホームページ http://www.geocities.jp/hiro_bnet/
カミサンと連れ添って千代田区九段下にある日本武道館に出かけた。日本武道館は、千鳥ヶ淵 北の丸公園の中にある。北の丸公園は、東京で一二を争う桜の名所である。池の周りが桜の木で囲まれている。桜の木は、蕾が膨れ公園全体が赤く見える。枝を良く見ると二三輪の花が咲いていた。
この日 東京 名古屋 静岡 熊本で桜(ソメイヨシノ)の開花宣言があった。
次男の大学の卒業式が日本武道館で行われた。
開式 学位記授与 記念賞授与 学長式辞 来賓祝辞 総代謝辞 校歌斉唱 閉式が厳かに進行した。
4250名が最後の学生生活にピリオドを打ち社会に飛び立つ。学長から「一行に凝縮できる人になれ」と卒業生へエールが送られた。一行に凝縮した人生とは、自分の仕事に対して素晴らしい業績を残せるよう努力せよと言うことだ。今時の若者は、向上心が少ないと言われている。学長は、教育の現場にいて今の若者に一番必要なものとしてこの言葉を贈ったのだろう。
ボクは、三人の子供に恵まれた。長男は昭和50年生まれ 長女は、53年生まれ、そして次男は、昭和60年生まれ、32年間子育てをしてきたことになる。
式場で32年間の思い出が蘇った。 速かったような遅かったような、重かったような軽かったような、きつかったような楽だったような。三人の子育ては、一人ひとり いろんなことがあった。楽しさを沢山もらった。そして苦しさも経験した。三人分の楽しさと苦しさは、カミサンとボクを人として成長させてくれたのではないかと思っている。
15年前 種子島(鹿児島県)を担当していたとき老開業医と出会った。
宿泊した旅館で食事をし、取引先の問屋さんの担当者とスナックに行きカウンターでウイスキーの水割りを飲んでいると開業医の先生がよろよろとした足取りで入ってきた。先生は、三人の息子を医学部に入れた。「今日 三番目が大学を卒業した」と嬉しそうに話した。
開業医は、世間から高収入と思われている。小さな島の小さな開業医のこの老医師にとって三人の息子を私学の医学部に通わせるには、経済的に苦労があったようだ。
その頃 ボクは、子供達が小さかったので子育ての苦労が分からなかった。子供三人を立派に医者に育て上げた老医師を一人の男としてかっこいいと感じた。
今日のボクも あの時出会った老医師のように嬉しそうな顔をしているんだろうか。チョコットだけ かっこいいんだろうか。あの時の老医師の気持ちがじわりと伝わってきた。
ボクも子育てから卒業である。そして来年サラリーマンから卒業する。
サラリーマンでは、一行に凝縮した人生を送れなかった。
陶芸家としては、一行に凝縮した人生を送りたいものだ。

この日 東京 名古屋 静岡 熊本で桜(ソメイヨシノ)の開花宣言があった。
次男の大学の卒業式が日本武道館で行われた。
開式 学位記授与 記念賞授与 学長式辞 来賓祝辞 総代謝辞 校歌斉唱 閉式が厳かに進行した。
4250名が最後の学生生活にピリオドを打ち社会に飛び立つ。学長から「一行に凝縮できる人になれ」と卒業生へエールが送られた。一行に凝縮した人生とは、自分の仕事に対して素晴らしい業績を残せるよう努力せよと言うことだ。今時の若者は、向上心が少ないと言われている。学長は、教育の現場にいて今の若者に一番必要なものとしてこの言葉を贈ったのだろう。
ボクは、三人の子供に恵まれた。長男は昭和50年生まれ 長女は、53年生まれ、そして次男は、昭和60年生まれ、32年間子育てをしてきたことになる。
式場で32年間の思い出が蘇った。 速かったような遅かったような、重かったような軽かったような、きつかったような楽だったような。三人の子育ては、一人ひとり いろんなことがあった。楽しさを沢山もらった。そして苦しさも経験した。三人分の楽しさと苦しさは、カミサンとボクを人として成長させてくれたのではないかと思っている。
15年前 種子島(鹿児島県)を担当していたとき老開業医と出会った。
宿泊した旅館で食事をし、取引先の問屋さんの担当者とスナックに行きカウンターでウイスキーの水割りを飲んでいると開業医の先生がよろよろとした足取りで入ってきた。先生は、三人の息子を医学部に入れた。「今日 三番目が大学を卒業した」と嬉しそうに話した。
開業医は、世間から高収入と思われている。小さな島の小さな開業医のこの老医師にとって三人の息子を私学の医学部に通わせるには、経済的に苦労があったようだ。
その頃 ボクは、子供達が小さかったので子育ての苦労が分からなかった。子供三人を立派に医者に育て上げた老医師を一人の男としてかっこいいと感じた。
今日のボクも あの時出会った老医師のように嬉しそうな顔をしているんだろうか。チョコットだけ かっこいいんだろうか。あの時の老医師の気持ちがじわりと伝わってきた。
ボクも子育てから卒業である。そして来年サラリーマンから卒業する。
サラリーマンでは、一行に凝縮した人生を送れなかった。
陶芸家としては、一行に凝縮した人生を送りたいものだ。

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