陶芸に関する悪戦苦陶の話
黄瓜(第百三十八話)


五月の連休にキュウリ 茄子 トマト ピーマンを苗で植えた。茄子は、アブラムシ(害虫)がつき三個収穫しただけで後が育たない。トマトは、実をつけているが赤くならない。ピーマンは、発育不全で苗のままの大きさである。

キュウリだけは、ボクとの相性が良かったのか六月に入りグングン音をたてて成長した。七月に入り実を付け始めると次から次に採れた。

キュウリの原産地は、北部インド、ネパールにかけてと言われている。
古来中国では、西方の夷(野蛮)を胡といった。胡瓜は、西方の野蛮人の瓜と言う意味だった。
キュウリの和名は、「きうり」である。中国では、胡瓜または黄瓜と書く。黄瓜を音読読みしたものが「きうり」だ。

ボクは、キュウリを英語でCucumberと習ったので西洋から来た野菜だと思っていた。黄色いキュウリも見たことがなく黄瓜と書くなど全く知らなかった。

最初は、一本のまま マヨネーズや諸味をつけて食べた。酢の物やサラダ 冷やし中華に入れてい食べた。
収穫した次の日にも又 大きくなっている。食べきれずに隣の人や同僚に配った。
農協のオバちゃんの話によるとキュウリは、24時間昼も夜も同じ速さで成長するそうだ。次から次へと大きくなるのだ。油断していると30cm以上の大きな実になる。

梅雨の明けた週末 キュウリ棚の下の方に黄金に輝くものが見えた。良く見ると巨大化したキュウリだ。長さ50cm、胴回り25cmの大物である。

ボクは、黄色く輝く巨大キュウリを見て、昔の人は、この状態で食べたのだろうと想像した。中国では、今でも完熟したものを煮て食べるそうだ。

日本でキュウリは、江戸時代まで人気がなかった。キュウリが見直されたのは、江戸末期から明治時代以降だ。大正 昭和になって大衆野菜として人気が出て来た。現在 日本は、世界一の消費国になっている。

キュウリは水分が96%と多く、栄養素はビタミンC、カロチンが含まれているが含有量は少ない。
利尿 消炎 催吐などの薬効がある。

ボクは、キュウリが好きだった。この一ヶ月で一年分くらい食べた。見るのも恐怖を感じるようになってきた。

河童は、キュウリが好物という。近くの川から河童が上がってきて、これから出来た分は、全部 持っていってくれないかと思う。

当分 ノウ サン キュウリ だ。


キュウリ棚2






2008⁄07⁄29(Tue) 23:36   未分類 | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top
初物「キュウリ」(第百三十七話)


江戸っ子は、初物が好きだったという。初物を食べると75日長生をすると信じられていたらしい。初鰹になるとその10倍の750日長生すると言われていた。その為 一匹に一両の値段がついたと言う記述を読んだことがある。

現在 一年中食べたいものが口に入る。四季がなくなったわけではないのだが世界がワールドワイドになり、どこからでも食べたいものが輸入される。野菜は、輸入だけでなくハウス栽培により一年中店頭に並んでいる。

ボクは、キュウリやトマト 茄子などの夏野菜は、夏に食するのが一番だと考えている。考えているが実際には、一年中食べている。

工房に小さな庭に作った菜園のキュウリがどんどん大きくなり実をつけた。
農協のオバちゃんから最初の実は、茎が細いので小さいうちに採った方が良いと教えてもらった。六月の中旬に10cmほどに育ったキュウリを採って持ち帰った。

三つに切ってカミサンと次男に分けて味噌を付けて食べた。旬の味が口の中で広がった。

ボクが嬉しそうに収穫までの苦労話をしていると次男は、「皮が硬くて美味しいね」と言った。確かに小さい割には、皮が硬かった。この場合、褒め言葉にはならないのでないかと思ったが社会人一年生の次男は、父親が自分で初めて育てたキュウリを自慢しているので褒めたのだろう。

ボクは、カミサンに「これからキュウリは買わなくて良いよ」と言った。
カミサンは、今日買ってしまったと言う。四本入ったパックを取り出して「これ100円」と言うではないか。

一本25円は、安すぎないか。消費者としては、ありがたい話だが栽培しているボクとしては不服だ。ホームセンターから重たい土や肥料を購入して運び入れた。これまでの経費は、一番安い苗や支柱を購入したが合わせると二 三千円は使っている。

我家の一年間で購入するキュウリは、全部で二 三千円もかからないだろう。

いつ頃から一年中キュウリやナスやトマトが食べらるようになったのだろうか。

ボクの子供の頃 キュウリや茄子やトマト カボチャは夏にしか食べられなかった。

其々の野菜に個性のある香りがあった。現在の野菜は、昔より甘みがあるような気がするが個性が少ない。キュウリも茄子もトマトも個性が少ないのだ。

六月の下旬には、キュウリがどんどん実をつけはじめた。
一番大きいのは、38cmのキュウリを収穫した。皮が硬かったが夏の香りが食卓に広がった。






2008⁄07⁄23(Wed) 06:15   未分類 | Comment(6) | Trackback(0) | ↑Top
小石原焼(3)「鬼丸豊喜窯」(第百三十六話)


福島善三窯から小石原焼伝統産業会館への途中に鬼丸豊喜窯がある。
個人のギャラリーや小石原伝統産業会館で小石原焼を見た。ボクのイメージしている昔ながらの厚ぼったい小石原焼のやきものが少ない。

昔の工房は、窓のない納屋の中にあり暗いイメージがあった。その頃 窓が無い方が粘土の乾きが少ないので良いのだと教えてもらった。

今回 他で見せてもらった工房は、窓を背にしてロクロが数台備え付けてあった。多分 観光客から見て絵になる風景だと感じた。工房の中は、どこも綺麗に片付けられてあった。

鬼丸豊喜窯は、展示場と工房が併設されていた。

展示場には、ボクのイメージしている小石原のやきものが並んでいた。飛びカンナ 刷毛目模様 グレーや茶色で派手な色がない。日常食器の皿や茶碗が並んでいた。一つひとつ手に取ると見た目より軽く使い勝手のよさそうな器だった。

工房は、ロクロの配置が窓を背にしていたが薄暗く昔の小石原で見た工房だった。

工房の壁に多数のトンボが掛けてあった。トンボは、竹で出来ており十字の形をしている。十字の上の部分は、指で持つだけなので2cmくらいの短さだ。横が幅を計り 縦が中の高さを計る。作品の大きさを測る道具なのだ。注文のあった器を同じ大きさに作るのに必要な道具だ。慣れてくると感で作るプロが多い。
鬼丸氏は、注文に応じ一つひとつトンボを作って製作している。整った作品から鬼丸氏の几帳面さが伝わってきた。

ロクロ場の横に積み上げられた粘土置き場があった。

全国の有名窯業地で若い作家達は、新しい技術や技法を取り入れる傾向にあるという。粘土も地元以外の粘土を地元の粘土にブレンドして使う作家がいると聞いたことがある。
各地の窯業地でどこも同じようなやきものを目にする事があるのは、その為かもしれない。

鬼丸氏は、小石原の伝統を守り愚直に小石原の粘土使い小石原焼を作り続けている。

小石原焼の伝統からはみ出さない鬼丸氏の作品にボクは、魅了された。

鬼丸氏は、やきものブームの去った頃、工房を持った。代々の窯元でなく自分で立ち上げた窯元だ。

奥さんは「うちは、やきものブームの景気の良い時代を知らない。現在 窯元の生活は楽でないが良い時代を知らないので焦らずやっていけるのだろう」と優しそうに笑った。


小石原トンボ






2008⁄07⁄16(Wed) 06:01   未分類 | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top
小石原焼(2)「福島善三窯」(第百三十五話)


平成15年に日本橋三越百貨店の展示場で、第五十回 日本伝統工芸展の日本工芸会総裁賞作品 鉄釉掛分条文鉢(てつゆうかけわけじょうもんばち)を観た。
鉄釉掛分条文鉢は、形が逆円錐型の大鉢で中が渋い黄緑(Dark olive green)で縁に小さな飛びカンナが施されている。
ボクは、形と色に惹きつけられた。
作家は、福岡県朝倉郡小石原の福島善三とあった。
ボクの知っている小石原焼とは、随分 違うイメージの作品に驚いた。
この時 機会があったら小石原焼を訪ねようと思った。

今回 小石原に行き、真っ先に福島善三窯を訪ねた。国道沿いにある福島善三窯は、広い駐車場があり、瀟洒な建物で直ぐに見つかった。ギャラリーは、広くて作品がゆったりと展示されていた。

福島善三の作品は、フォルム 色 どれも品が良い。鉄釉掛分条文鉢をあらためて見ると口縁部に比べて極端に高台部が小さく観る人に緊張感を与える。

日本伝統工芸展は、陶芸 染物 漆芸 金工 木竹工 人形 その他(硝子 七宝 硯等)の七部会からなる。
多くのプロ達は、日本伝統工芸展の入選を目指して制作活動をしている。

第35回日本伝統工芸展 入選 以降15回入選と数々の展示会での入選は、福島善三の実力を物語っている。直接作品を観てその実力を改めて実感した。

ギャラリーで福島善三さんから直接話を聞くことができた。

福島善三さんは、ボクより十歳年下だ。歳よりも若々しく都会的でクレバーな感じの作家だった。

日本伝統工芸展へ出展する作品は、プロの陶芸家が一年かけて出展作品を制作すると聞いていた。

そのことを福島さんに訊いた。
福島さんは、釉薬などの開発に数年かかるので構想から出来上がりまで一年でできるものでない数年かけて製作すると言う。

ギャラリーにあったパンフレットに次のキャッチコピーが記されていた。
小石原焼の長い歴史のなかでこれまでに伝えられてきた技術 技法を伝承しつつ、それをいかに自分自身が噛み砕きオリジナリティのある新しいやきものを創りだしていくかこれが自分にとっての「伝統を受け継ぐ」ということだ。
これまでにも赤や黒、緑など、工夫の中に独自の色を創り出した。これからも小石原で採出される鉄分の多い陶土を用いて、鉄分の多いことがより相乗効果を生むような釉薬の調合など、いろいろな試みを繰り返しつつ、今日の生活に即した新しいものを創ることができるよう心がけている。

福島善三氏は、日本工芸総裁賞の受賞や伝統に気負うことなく、静かに物つくりの心構えを語ってくれた。


福島善三






2008⁄07⁄09(Wed) 05:51   未分類 | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top
小石原焼(第百三十四話)


六月の初め 福岡県のやきものの里 小石原焼に行った。

大分県竹田市から久住町をとおり久住高原をとおる。右前方に九重連山を望む。左方向に薄青い色をした九州山脈の祖母山 傾山を望む。しばらく走ると左方向に阿蘇五岳が望める。瀬の本高原でやまなみハイウエーを横切り黒川温泉の方向に車を走らせた。
黒川温泉から杖立て温泉 松原ダムを経由して日田市に到着した。
新緑の山並み 棚田に水が張られ風景は、昔のままだ。

社会に出た頃 大分県日田市で仕事をした。四十年前 日田市から実家への帰省は、いつも このルートを通った。

小石原は、福岡県の南東部に位置し、標高500メ−トルの山間にある。日田市から車で一時間の距離だ。
この頃のボクは、茶碗作りに興味がなかったが小石原には、度々 足を運んだ。

ロクロを回している陶工を見てカッコイイと思ったがやろうとは、夢にも思わなかった。

四十年前の小石原は、田舎の集落だった。農家の納屋に作業場があり庭に手板に乗った器が天日干されていた。いつも唐臼の音が響き長閑な集落だった。
長閑な集落だったが五月の陶器市には、多くの人で賑わい、集落全体に活気があった。この頃の小石原は、昭和三十年代の後半に始まった民陶ブームの最中で活気のあるやきものの里だった。
人々は、大らかで茶碗や花瓶をほしいといえば安く分けてくれた。たまには、大きな花器をただで貰ったこともある。
灰被りの花器が工房に転がっていた。「持って行っていいよ」と言われたが価値が分からず貰わなかった。陶芸を始めた今 ボクは惜しい事をしたと思っている。

現在 小石原には、五十余りの窯元が操業している。

小石原の歴史は、江戸時代に遡る。小石原焼は、筑前(北九州市)の藩用窯として始まった高取焼と中野(小石原)焼から始まった二系統がある。

小石原焼は、生活に役に立つ「用の美」を追求してきた。その特徴は生乾きの時に紋様を彫る飛びカンナ、刷毛目、櫛目、流し掛け、指描、打ち掛けといった装飾技法がある。
かめや壺、鉢、すり鉢、徳利といった生活雑器を主に作っている。色も茶色やグレーの渋い色が多かった。
四十年前は、どこの窯元も同じ小石原焼の特徴をもったやきものだった。

昭和三十年後半から始まった民陶ブームが去り、窯元も世代が代わった。

今回 三軒の窯元を訪ねた。ギャラリーに並んだ作品は、小石原の特徴を残し現代的な雰囲気をかもしていた。色もグレーや茶色の渋い色から青や赤の明るい色が取り入れられていた。

伝統を背負いながら新しい時代のニーズに応える若い作家の息吹が聞こえた。


小石原工房






2008⁄07⁄02(Wed) 06:15   未分類 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top

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プロフィール

Author:どうしょう花
サラリーマン生活が残り一年になりました。
宮崎での単身赴任時代に始めた陶芸が十年になります。
昨年 年末に窯を持ちプロとしての環境が整いました。
サラリーマン生活を悔いのないように全力でラストランしたいと思います。
週末は、陶工への道にむかい励みます。
還暦前の老人が悪戦苦闘している日々を「どうしょう花」がエッセイにして毎週水曜日に掲載致します



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