2017/06/23

TITLE:「 オペラ 

 アジサイが道端のあちこちに咲いている。万葉集に「もの言わぬ木にも、アジサイのように色の変わる信用できないやつもある」と歌われているように赤、紫、白と艶やかに輝いている。

 稲城市民オペラ第3回公演「こうもり」を観た。ピアノ、ヴァイオリン、クラリネット、ファゴットの演奏で幕が開いた。煌びやかな衣装を身に着けたソリストが声高々に歌い始め、改装された稲城市中央文化センターホールに響き渡った。

 ボクはオペラを観劇するのは初めてだ。友人に旅役者がいて演劇には何度も足を運んだ。その時、マイクを持っていないのに役者の声がとおるのを不思議に思った。役者の耳にピンマイクがあることを知った。舞台に立つソリストの耳にピンマイクが付けられていると思った。舞台を観ていて小さい声の台詞の時、ボクは「おや」と思った。マイクを通した声でないのだ。オペラは2000人の会場であってもマイクを通さないそうだ。地声なのである。マイクを通さず、よくこんなにも大きな声が出るものだと驚き、生の声が聴く人の心を揺さぶることを知った。

 オペラは「歌劇」と訳される。台詞の大部分が独唱、重唱、合唱で演じられる。伴奏は管弦楽によるクラシック音楽。16世紀末イタリアで生まれ、貴族階級に広まり。ヨーロッパで発展していった。

 今回のパンフレットにオペレッタとあった。オペレッタは19世紀半ば、貴族の楽しみだったオペラを庶民にも楽しめるようなコメディ形式にしたものだそうだ。

 説明書を見ながら「なるほど68年間、オペ ラを観る機会がなかったのは、ボクが庶民のせいで仕方がないことだ」と思った。友人に聞いても「オペラは高くてとても見に行けないよ」という庶民ばかりだ。

 ボクは稲城市の芸術文化を「広め」「高め」「育てる」活動をしている芸文連の手伝いをしている。

 今回のオペレッタ公演は第三回目になる。合唱団は市民から公募し、舞台に立った。街にオペラが広がりみんなが楽しめる機会になっている。満員のホールに笑顔が広がった。

 アジサイのような衣装をまとったソリストの高く澄み渡った歌声に感動して、ボクは雨の中ホールを後にした。

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2017/06/16

TITLE:「 信楽の旅、衰退産業 

 忠六窯をでてプラプラと陶美通りを歩く。小さな工房の前に年配のオジサンが植木鉢に水をやっていた。ボクが「工房を見せていただけますか」と声を掛けると「もう、歳だからやっていないんだよ」と言った。そして「まだ頼まれた仕事が残っているんだが」と少し悔しそうな顔をした。工房はそのままになっていていつでも仕事のできる状態だった。80歳を超えた陶工は、まだ工房をたたむのには、踏ん切りがつかないようだ。気の毒だが人には年齢と言う限界がある。陶芸は体力のいる仕事だ。

 老人の工房を後にして歩く。閉めているお店や工房が目立つ。大きな工房の扉が開いていた。リクライニングシートでたばこを吹かしている中年の男性がいた。工房を見せてもらえるか訊ねると「もうやっていないんだ」と気だるくそうに振り向いた。東京で陶芸教室をやっていることを告げると工房を案内してくれた。二階にロクロを置いた仕事場があり、大きな土練機があった。土練機はまだまだ新しく使えるものだった。主は「車一台分の値段がしたんだがね。使っていないとだめだね」と言った。話を聞くとここにきて注文が全くなく、仕事として成り立たなくなったそうだ。

 信楽焼は、日本六古窯の一つ古くから窯業が盛んな町だ。中世には窖窯で壺、甕、擂鉢など日用品が作られた。室町、桃山時代以降は茶道具が生産され茶人や文化人から珍重された。江戸時代には茶壺、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が生産された。幕末には陶器製灯明具の一大産地だった。明治時代には新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢が大量生産されて全国の家庭で使われた。その後、電気や灯油の普及で火鉢の需要がなくなり盆栽や観葉鉢に品種転換をする。

 時代の変遷で壺、甕、擂鉢、火鉢の需要はなくなり、日用雑器も外国から安い品物が輸入されるため注文が少ない。これらは信楽だけでなく全国どこの窯業地も同じ状況にある。

 重い気持ちでトボトボ歩いていると人の気配のする工房があった。重蔵窯で作業している方から話が聞けた。重蔵窯の代表今井広重さんだ。今井さんの工房ではタヌキの置物も壺も甕もなく手洗い鉢が並べられていた。今井さんは「やきものが衰退しているというが時代にあったニーズを探さなくてはいけない。ここにいてはだめなのです。私は東京ビックサイトで行われる『FOOMA JAPAN2017』などに出展して関係する会社の人やお客さんから話を聞くことにしている」と話し、まだまだいろいろな需要があると言った。今井さんの手洗い鉢には「利休信楽手洗い鉢」と命名されていた。

 今井さんの話を聞き、明るい足取りで今日の宿、「ペンション紫香楽」に戻った。

2017/06/01

TITLE:「 信楽焼の旅、忠六窯 

 展示会の準備を一旦停止して滋賀県の信楽に向かった。新幹線の車窓を眺めながらこの一ヶ月の慌ただしを顧みた。芸文連の総会と理事会の準備、教室の展示会の準備、少年少女合唱団の演奏会、他に会合が二つ。サラリーマン時代、3つくらいの仕事を抱えて走りながらこなした。それが当たり前だったが今は老後人生、ゆっくりする予定だった。「意に反して今年からサラリーマン時代に使っていた手帳に戻した。これじゃサラリーマン時代と同じじゃないか!老後はどこに行った」ボクは景色に向かって呟いた。

 京都でJR琵琶湖線に乗り換える。車窓の景色も空気も段々良くなる。草津でJR草津線に乗り換え、貴生川から信楽高原鐡道で信楽に到着する。ホームで大勢のタヌキに迎えられる。タヌキは「他を抜く」と言って商売の縁起物だそうだが、老人のボクは競争したくないのであまり関わりたくない。そうはいうが大きなお腹だして、小さなチンチンさげて愛嬌のある顔だから許してやろう。東京をでて5時間、ボクはすっかり本来の68歳のお爺さんに戻った。

 信楽駅の売店で今夜泊まる宿情報を訊く。売店のオバチャンは「ホヤな、ペンションシガラキがよい」と教えてくれた。ペンション紫香楽の女将から忠六苑を紹介され工房を訪ねる。土の再生中だった古谷博文氏から話を聞けた。

 信楽焼は日本六古窯の一つ、今から千二百年前、聖武天皇が紫香楽の宮として造営された時、信楽の土を使って瓦を焼いたのが始まり。「忠六」は、先代の名前。古谷氏は父の後を継いでいる。

 信楽の粘土の話、昔の作陶風景を話してくれた。古谷さんは、小学生から家業との手伝いをした。学校から帰ると粘土を運び、作品を運ぶ手伝いをした。

 工房には古いロクロがあり、使い方を説明した。電気の無いときロクロは手ロクロとか蹴ロクロが使われた。信楽では別の方法でロクロが廻された。ロクロの円盤の下に縄をまいて別の人が廻した。大物を作るとき、人間がロクロの下に入って足で廻した方法に似ている。信楽は山の上にあり寒いところだ。ロクロの手桶の下に七輪を置き、水を温める方法も見せてもらった。

 古谷さんの作品は自然釉の灰かぶり、緋色などの特徴を活かした代表的な信楽焼だ。緋色のぐい呑みを一個購入して忠六窯を後にした。

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