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安東道正

Author:安東道正
サラリーマンのときに綴ったエッセイ「窓際のロクロ挽き」と「窓際の陶芸家」,定年後に綴った自伝小説「陶芸家弓さん」は本になりました。陶芸クラブいなぎで1冊500円で発売中。
自伝小説「つりあがりもん」に続き「悪戦苦陶、陶芸家ロクさん」を掲載します。
陶芸クラブいなぎ
http://inagitgc.html.xdomain.jp/

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古希の同級会「恩師後藤先生」 

 小鹿田の里から故郷の豊後大野市に向かって軽自動車を走らせた。大分県日田市は社会に出て第一歩を踏み出した地だ。街並みを横切って大山町、松原ダムを通って九州横断道路にでる。瀬の本高原から久住連峰を眺めながら竹田市を通って故郷に到着する。本番の同級会は明日だが今日は前夜祭。シンくん、クロくん、イクさんとボクの四人は、焼鳥屋でビールの泡を飛ばした。

 翌朝、両親の墓参りをした。ろうそくに灯を燈し線香をあげる。墓石の前の石に腰をおろして周りを見渡した。父が亡くなって16年が経ち周りの杉の木が大きく育った。カラカラと枯葉が風に飛ばされ小鳥が冬支度にせわしく飛び回っている。秋の空が高く広がり白く軽そうな雲がぽっかり浮かんでいる。県道沿いにある墓だが車が一台も通らない。六さんが故郷を離れて半世紀。当時、村には人が多く暮らしていた。六さんもこの道を毎日バイクで高校へ通った。高校は1学年5クラスあった。普通科、女子だけの普通科、食品化学科、農科、家庭科。六さんは男女共学の普通科で3年間同じ教室で学んだ。1年の担任は大久保先生、2年3年は後藤一成先生だった。後藤先生は英語の先生で若く、髪型がリーゼントでかっこよかった。東京の大学で学びたいと思ったのは担任の後藤先生の影響があったような気がする。若くクリクリ頭の頃を想いだしているとろうそくの灯が消え線香の火も落ちた。両親に手を合わせ大きく頭をさげて高校生の時のように「行ってきます」と大きな声で挨拶した。

別府のホテル「パストラル」の宴会場に「大野高校(普通科1)1967年卒『古希の集い』」の横断幕が掲げられている。発起人のミエさんから鬼籍に入った名前が読み上げられ黙とうし、会が始まった。後藤先生もギターを抱えて出席してくださった。先生の演奏で校歌を歌った。先生は歌詞カードを用意してくださった。六さんも一番は覚えているが二番三番は自信がない。「霊山の山脈秀で、若草の萌え出づる処、大野、大野高等学校」。みんな51年前の高校生の顔になっている。六さんは思い切り大きな声で歌った。六さんは自他共に認める音痴である。隣にいた元女子は、驚いた顔をして六さんの歌っている顔を眺めた。宴会の時、元女子は「六さん、歌、上手くなったね」と笑いながら褒めた。六さんは「ごめん、声が大きくなっただけで高校からのまま音痴じゃ」と薄くなった頭をかいた。

歌の後、昔話に花が咲いた。70歳になると仕事の話もなし、孫の自慢話もなし、病気の自慢話も控えめになった。今の趣味の話、高校時代の話が中心だ。六さんも後藤先生に「先生、ボクに信号の見方を教えてくださったこと覚えていますか」と質問した。先生は「覚えてないな」と不思議そうな顔をした。先生はボクの村に信号のないことを心配して見方を教えた。「六くん、前の信号が赤の時は、横の信号を見ていると青から黄色になる。黄色になるとそろそろ前に信号が青に変わり発信できる」と教えてくれた。先生はあまり関心なさそうに頷いた。

後日、発起人のミエさんから集合写真が届いた。集合写真には古希になったお爺さんとお婆さんが並んで写っていた。六さんは、81歳になった恩師の後藤先生より自分の方が年上に見える写真に納得がいかず、家族に見せず机の一番奥にしまった。

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[2018/11/16 11:44] 未分類 | トラックバック(-) | CM(0)

小鹿田焼(おんたやき) 

 早朝5時15分稲城駅発の羽田行リムジンバスで羽田に向かった。六さんの住む稲城に羽田と成田行きのリムジンバスが2、3年前から出るようになった。羽田までの首都高速道路が整備され1時間弱で羽田に到着した。食堂で卵かけご飯定食を食べJAL大分行に乗り込んだ。 大分空港から予約していた軽自動車のレンタカーで高速道路の大分道に乗り日田インターで降りた。

今年の春、高校の同級生から同級会の案内が届いた。高校を卒業して51年経つ、古希の祝いのクラス会という。車を運転しながら「早いもんじゃのー」と高校を卒業してからの月日を想った。結婚し子供を三人育てた。会社人生を経て今零細の陶芸教室を営んでいる。

日田インターから30分ほど山道を走り小鹿田焼の集落に着いた。丁度お昼時になり蕎麦屋、山乃そば茶屋の暖簾をくぐり笊そばをたぐった。茶屋の下を小川が流れ、せせらぎの音と唐臼の音が聞こえてきた。「コーン、コーン、コーン」と慌ただしく東京から駆け込んできた六さんをなだめるような長閑な響きである。窯業地の地名に皿山と付いているところが多い。小鹿田焼の集落も皿山と呼ばれている。六さんは山を掘って窪みができて皿山と名称が付いたと思い込んでいた。皿山はお皿を作るところ、お皿ができるところという意味でつけられたことを知った。小鹿田焼の皿山には10軒の窯元がある。六さんは、仕事場を見せてくれる窯元を求めてブラブラ歩いた。どこの窯元の仕事場には蹴ロクロが2挺(台)据え付けられていた。坂本浩二窯で窯元の坂本浩二さんから話を聞けた。「小鹿田焼は一子相伝とお聞きしていますが」と話しかけると坂本さんは「こだわっているわけではないが体力勝負なのでそうなってしまう」と言った。山から土を採ってくる作業から唐臼で砕く作業、水簸して乾かし練る作業全て手作業。作りも蹴ロクロなので歳をとると体力的に無理になり子どもに継承される。2挺並んである蹴ロクロは技術を継承させるのに良い配置のようだ。坂本さんは、「うちも息子がいて継いでくれるが今の若い者に手作業を納得させるのに苦労する」と苦しい胸の内を語った。何故、土練機でなく手で練るのか?何故電動ロクロはダメなのか?何故肉体的に苦労をする方法を続けるのか?答えのないまま何となく息子さんは続けてくれているそうだ。

話をお聞きした後、六さんは坂本浩二窯のギャラリーで茶碗やぐい飲み、湯呑茶碗を手に取って見た。軽 さやバランス、トビカンナのリズミカ、打ち刷毛目のリズミカル、打ち掛けのゆったりした模様、流しかけの大胆な流れ模様、どれも他で見ることのできない作品が並んでいた。この美しさが継いでいく人への答えなのだろう。

宝永2年(1705年)から300年続く伝統の技がこれからも一子相伝で繋がっていく、唐臼のコーン、コーン、コーンと響きを聞きながら六さんはもう一度ゆっくり訪れて見ようと思った。

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[2018/11/10 17:03] 未分類 | トラックバック(-) | CM(0)