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安東道正

Author:安東道正
サラリーマンのときに綴ったエッセイ「窓際のロクロ挽き」と「窓際の陶芸家」,定年後に綴った自伝小説「陶芸家弓さん」は本になりました。陶芸クラブいなぎで1冊500円で発売中。
自伝小説「つりあがりもん」に続き「悪戦苦陶、陶芸家ロクさん」を掲載します。
陶芸クラブいなぎ
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小学校の卒業式 

 東京地方の桜開花宣言があった次の日、六さんはママチャリをこいで第六小学校に向かった。昨年に続き来賓として卒業式に招待された。昨年は社会教育委員として出席したが今年は学校運営委員もしているので両方の立場での出席になった。 

途中、コブシが純白な花を咲かせ純真だった子供の頃を想いだした。六さんは自分の小学の卒業式に何をしたか全く思い出せない。「なにせ58年前のことだ、無理もない」とコブシに呟いた。

 体育館には父兄と在校生を代表した5年生、先生方が着席していた。校長先生の先導で来賓席に着いた。開式のことばに続いて国歌斉唱があり学事報告が卒業生一人ひとりからあった。学事報告は卒業証書が授与される前に壇上で自分の小学校で学んだこと、親への感謝、将来の夢などを大きな声で発表された。両親への感謝、恩師への感謝、友人への感謝の言葉が多かった。自分の夢では自衛官になる、電車の運転士になる、小学校の先生になる、幼稚園の先生になる、弁護士になる、ホテルのスタッフになるとしっかり具体的な目標を口にした。サッカーのプロ選手になる、テニスプレイヤーになると子供らしい夢もあった。イラストレーターもいた。まだ夢が見つからないのでこれから中学に行って見つけると意欲的な生徒もいた。

 発表の短い時間、夢に向かう具体的な話をする生徒に六さんは驚いた。六さんの子供の頃、学校の先生になりたいと思っていたが口に出して他人に言うことはなかった。同級生も自分の将来を語る子供はほとんどいなかった。栄ちゃんという同級生が「目が覚めると雀がチョスチョスと鳴くここが好きだ。オレはここで農業をする」と言って農家をしている同級生が一人いた。

 校長先生の式辞では「自己肯定感」を持って進んでほしいと言葉があった。自己肯定感とは、「自分には価値があるんだ」「自分は愛されているんだ」と自分の価値や存在意識を前向きに受け止める感情や感覚をいう。恵まれた環境に育った今の子どもたちは消極的な思考人間が多いいのだろう。自信を持って進んでほしいというメッセージだと六さんは思った。

教育委員会告辞、来賓祝辞と続いた後、卒業生46名は壇上まえに設けられた雛壇に整列し、フロアーに並んだ在校生代表の5年生と向き合う形で代わるがわる学校の思い出、両親への感謝、先生への感謝、在校生に贈る言葉を発した。5年生一同が先輩に対する感謝の言葉、これから先輩に代わって自分たちが最上級生として学校を運営すると誓いの言葉を発した。

 しっかりした口調で話していた卒業生は、校歌斉唱の頃になると目頭を押さえてすすり泣く子がいた。先生方の中にもハンカチで目頭を拭っている。その光景を見た六さんも感動して周りの人に分からないように目頭を拭った。

 全員で校歌を斉唱して卒業生一人ひとりが胸を張って退場していった。先生、父兄、5年生、来賓の全員が卒業生一人ひとりの将来へエールの拍手を贈った。

 六さんは開花し始めた桜の下、ママチャリをこいで工房へ向かった。水路の川面がキラキラと春の陽を輝かせた。

 

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[2019/03/22 21:49] 未分類 | トラックバック(-) | CM(0)

ふれあいこどもまつり 

 桜の蕾が赤く染まってきた。三沢川の川面から柔らかい光が反射し、六さんの足取りも軽く見える。六さんは「春だなー」と呟きながら会場の文化ホールに行った。実行委員である六さんは、昨夜劇団から工房に着いた舞台の道具を台車で運び込んだ。実行委員長のモリさん、事務局のミヤさん、本部事務局のホソさんと実行委員10名が揃った。

 ふれあいこどもまつりは、東京都の主催で15年前に始まった。プロの役者、音楽家、手品師など芸人の技を見て、参加し、体験することでこどもたちの感性を磨こうという企画だ。

今年はワークショップとして「トコトコ歩く、やぎさんを作ろう」「びりとブッチィーと一緒にバルーン体験」。舞台として「びりとブッチィーのコメディー」「小さい劇場~ぞうのエルマー」が上演された。

 六さんは午前中に小さい劇場~ぞうのエルマーを観劇した。自分の手を使って動物などの形を作る遊びや広告紙などを使って作ったボール遊び、段ボール箱で作ったゾウさんでの寸劇。どれも身の回りにあるもので作る手作りの遊びだ。六さんは3人の役者さんが繰り広げる遊びに子供の頃のことを思いだした。何もない山の中で育った六さんは、買ってもらった玩具はなく、ほとんどが手作りした道具で遊んだ。竹で作った弓と矢、木刀、釣り竿、水鉄砲、ヒノキの実を飛ばす鉄砲、石を飛ばすゴム銃など戦いの道具が多かった。昭和24年生まれの六さんの子供の頃は、まだまだ世の中に戦争の空気が残っていたので弓や木刀、銃だの使った戦いの遊びが多かったのだろう。紙飛行機や笹舟、竹馬、木で作った自動車もあった。親たちもナイフや鎌、ナタなどを平気で使わせてくれた。足や手にある傷跡は、その頃ついたものだ。ナイフの怖さ、鎌やナタの怖さもその時、身に着いた。大人たちもケガをした子供を見ると自分の子どもに関係なくヨモギの葉っぱをむしって唾をかけ揉んで傷にこすりつけ「はい、ここから大きくなる」と言って頭を撫でて「ハイ、大丈夫」で終わりだった。

 午後はびりとブッチィーによるコメディーを観劇した。二人のコメディアンの掛け合いに子供だけでなく大人も大きな口を開けて笑った。コメディアンは、開場の時、舞台衣装を着け舞台化粧をして入り口でお出迎えし、終演後は出口でお見送りした。出口ではファンの要望で一緒に並んだ写真撮影の行列ができた。六さんも役得で一番後ろに並んで写真を撮ってもらった。日ごろ気難しい顔をした六さんが子どものような顔になっているのを見た実行委員たちは呆れた顔をした。

 六さんの子供の頃には、このように間近でプロの演技を見られる機会は一回もなかった。プロの演技を直に観たのは町にサーカスが来たとき一回観た記憶しかない。現在の子どもたちは恵まれている。いや恵まれすぎていると六さんは思った。

 全ての演目が終了して後片付けをした六さんは、三沢川の桜の蕾を見ながら歩いて帰宅した。自由に鎌を振り回して遊んだ六さんの子ども時代と間近でプロの演技を見られる現在の子どもたちは、どちらが幸せなんだろうと六さんは思いながら歩いた。近所のおじさんから傷口に自分の唾で揉んだヨモギの葉っぱで治療してもらったことを懐かしいと想いだした。故郷の川の流れも同じ清流だった。

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[2019/03/15 21:33] 未分類 | トラックバック(-) | CM(0)

シャンソン歌手オーさん 

 六さんは、隣町であるシャンソンの演奏会を聴きにつばの広いハットをかぶり颯爽と電車に乗り込んだ。サラリーマン時代、六さんは猛烈に働き、音楽を鑑賞する時間などなかった。50歳の時、陶芸を始め60歳で陶芸教室を開業した。開業すると周りの人たちは、六さんを陶芸家として見るようになった。芸術と程遠い道を歩んできた六さんには、自分の中に陶芸家の認識がなくこそばゆい思いがある。

 6年前に町の芸術文化を手伝う芸文連に入り活動を始めると六さんを見る周りの目は益々意に反して昔から陶芸に関係した仕事をしている人と見られている。ミュージカルの演奏会、オペラの演奏会、和太鼓、舞踊、絵画の展示会、書の展示会など招待されることが多くなった。六さん元々生真面目な人で誘われれば時間の許す限り出向いていく。決して演奏会や展示会が嫌でなく、むしろ足を運ぶ度、もっと感性の良かった若い頃、足を運べば良かったと思うことが多い。

 今回のシャンソンの演奏会も芸文連会員のオーさんから誘われて足を運んだ。第一部シャンソンドラマ「最後のラブレター」の幕が開いた。ドラマ仕立てで台詞とシャンソンが歌われた。 

 シャンソンは教会の修道士や司祭がポピュラーソングの形式で伝道歌を創ったのが始まりとされている。一編の短いドラマのような歌である。最後のラブレターでは歌の合間に朗読が入り一つの物語になっている。第一部の出演者はアマチュアの歌い手というが堂々とした歌声が会場に響いた。「若草の恋」「悲しき天使」「これが恋かもしれない」「ANAK」「抱きしめて」「悲しみのソレアーヂ」と続き「夢見る人」を全員で歌った。「君と結婚していたら今頃・・・これは考えないようにしています。考えるだけ君を泣かせることになるだろうから」「この言葉だけは伝えておきたいのです。・・・あなたに逢えて幸せでした」「みんなと同じでなくても良いんだよ。帰ってきておくれ・・・」どの歌詞も素晴らしく六さんの胸に強く刺さった。オーさんは「ANAK(息子)」を静かに歌った。

 舞台に立った歌手の皆さんの表情は堂々として背筋がシャキッと若々しく見える。よく見ると決して若くなく、六さんと同じかもう少し年長者のようだ。ラブレターを朗読した年長者の方が92歳と自分を紹介したのに会場がどよめいた。

 第二部のシャンソンギャラリーではプロ歌手が二曲ずつ歌った。どの歌にも物語があり心にしみた。

 次の日、オーさんは六さんの工房へお礼にきた。昨夜シャンソン歌手の顔をしていたオーさんが普通のオジサンになっていた。若い頃から合唱団で歌っていたオーさんは、定年後、独唱したくなり音大で勉強したと話した。

 オーさんは地域の劇団でも中心となって活躍している。アマチュアから音楽家の道を進んでいる。六さんもアマチュアから陶芸家への道を進んでいるがまだまだ陶芸家と言われるのに戸惑いがある。堂々としたオーさんの舞台を観て、これからは堂々と陶芸家として進んでいこうと決意する六さんだった。


[2019/03/08 21:09] 未分類 | トラックバック(-) | CM(0)

芸文連45周年式典 

 午後「本日自主作陶」に入り口の札を代え、六さんは会場の振興プラザに向かった。ネクタイにスーツを着ると背筋が伸びる気がした。38年間のサラリーマン生活で身に付いた習慣である。

 芸文連45周年事業の実行委員長、クリさん始め実行委員もスーツ姿でテキパキと準備の作業をしていた。女性の理事は着物にエプロン姿だ。会場は全て理事の手によって設営されている。横断幕からテーブル、受付では名簿から領収書まで一つひとつ手作業で準備が進められた。

 この一ヶ月、45周年の冊子作りから席次表までクリさんと実行委員で話し合いを重ね準備された。表紙には今までなかった市のシンボル「なしのすけ」がデザインされた。大きさがA4サイズで文字が大きく見やすく写真も多く掲載された。横断幕の祝は祝い事なので朱でなくてはならないと赤く染められた。実行委員のこだわりが細部に見て取れた。

 午後6時、80名の出席者が席に着き式典が始まった。初めに会長から「芸文連は昭和48年10月に発足しました。45年間で世の中は大きく変化をしております。市の人口は3万人から9万人に増えました。芸文連の会員も団体会員が減り、個人会員が増えました。45年間の継続は、歴代会長はじめ理事の皆さんの努力の賜物であります。継続の力になった大きな要因は会員の考え方に「機会均等」「相互信頼」の精神があったからだと思います。市民が何か習い事を始めたいとき、芸文連の会員にはそれぞれの分野の先生がいます。各地域に公民館があり自由に使えます。教える人がいて場所がある。やる気さえあれば機会均等に学ぶことができます。習い事は上達すると人に見てもらいたくなります。各地域の公民館では一年を通してお祭りが開催され発表に機会があります、その一番大きなイベントが芸文連の主催する市民祭であります。市民の皆さんは芸術に触れ合う機会が均等にあります。

 芸術分野には、華道、茶道、書道、絵画、手工芸、舞踊、フラダンス、ヒップホップダンス、和太鼓、二胡、囲碁、俳句などいろいろあります。やり方も考え方もそれぞれ違うが芸文連には相互信頼の考え方があり、話し合い譲り合いで大きなイベントを開催してきました。

芸文連の会員だけの努力では45年間を継続するのは難しかったと思います。市長はじめ行政の方々の援助、特に生涯学習課のご支援は欠かすことのないものでした。議長始め議員の皆様のご支援ご鞭撻にも感謝申し上げます。特に賛助会員の皆様のサポートを忘れてはいけません。さあ準備が整いました。会員の皆様45周年を祝い、50周年、100周年の夢を語り合いながら楽しい時間をお過ごしください。」と挨拶があった。

 市長の祝辞に芸文連初代会長の川邉尚風先生の書「至誠無息」が市長室に掲額されていると話があった。「誠の心をもって生涯を貫きなさい」と市長室に相応しい額である。自分が出来ていると思いませんが少しでも近づけるよう精進していますと話された。

 祝賀会が始まり、六さんの元に会員の書道の先生がやって来て「市長から川邉先生の話をしていただき感激しました」と目頭を押さえた。この先生は故川邉尚風先生の弟子で今も奥様と親交があると教えてくれた。

 副会長の詩吟が披露され、理事のオカリナ演奏、ボニージャックスの玉田先生の歌声が披露され、大貫先生の舞踊で芸術文化に携わる芸文連の45周年は会場が祝賀で一杯になり参加者全員笑顔の花が咲いた。

 会場を片付け、六さんは三沢川沿いを歩いて帰宅した。45周年事業が無事終了したことをお地蔵さんに報告した。お地蔵さんが「良かったのう」と微笑んで見えた。


[2019/03/02 21:18] 未分類 | トラックバック(-) | CM(0)